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2010/01/27(水)
★放浪画家「晩翠(ばんすい)」












「放浪の画家」と言えば、まず一番に思い浮かぶのが「裸の大将」の愛称で親しまれている犹害疾恐菁讚爐任靴腓Α2峅个大好きで日本中を放浪したのは有名ですが、実は旅先で絵(ちぎり紙細工)を製作することは少なかったそうです。その情景を記憶にとどめ、千葉県市川市の八幡学園へ戻ってきてから、資料もなしに細部にいたるまで詳細に再現したそうで、山下さんの記憶力は驚異的なものだったそうです。


いっぽう、西生寺で「放浪の画家は?」と言えば、皆口をそろえて「晩翠(ばんすい)」と言うはずです。晩翠は、放浪の旅の途中で西生寺に立ち寄り、しばらく滞在した人です。現在「宝物堂」に展示してある「弘智法印即身仏一代記」の「掛け軸」を描いた人物こそ、今回の主役の晩翠さんです。


山下清さんが日本中を放浪した時代(昭和30年代〜)は、日本中に「放浪ルンペン(こじき)」と呼ばれる人が大勢いたのだそうです。ルンペンという言葉じたいが死語となりつつある今、同じ時代を生きた「ルンペン晩翠」の放浪人生に、旅が好きな私はとても興味がありそして惹かれます。


まずは晩翠さんが西生寺に来るまでの爐いさつ爐任垢、すでにインパクトがあります。

晩翠さんは、なんと地元寺泊の海岸に「いき倒れていた」のだそうです。通りかかった地元の漁師さんたちが、倒れている晩翠さんを見つけて救出しました。いかにも「こじき」といったかんじのボロボロの服をまとった状態だったそうです。寺泊港近くのお寺に運ばれ、栄養と休養で元気になり、そのまま付近のいくつかのお寺を放浪したあと、歩いて弥彦山を登り、寺泊野積の西生寺にやって来ました。


身元不明、年齢不詳、どこから来たのかも一切語らず、ただ自らを「絵描きであり、名前は晩翠(ばんすい)」とだけ名乗るルンペン(放浪こじき)の男。当時40歳くらいの若い住職だったお父さんは「居たきゃ居れば?」的な寛容さで、ふらっとやって来た身元不明の男に西生寺の一室を与えたのでした。冷たい秋風が吹く11月頃だったと言います。


晩翠さんは、本名は名乗らず、年齢は推定60代半ばくらい(最後まで年齢も明かさず)、大柄で中肉中背、立派なひげを生やしていて、そのひげがトレードマークになっていました。西生寺に来た当時、持ち物はほとんどなし、もちろん手持ちのお金もゼロでした。

こうして放浪画家晩翠さんの西生寺での生活が始まりました。


とここで「ちょっと待った」的に浮かんだ私の素朴なギモン。「食事などはどうしていたのか?」日頃の食事作りをまかっている私はそこがどうしても気になります。かの山下清さんは「何でも3杯!(おかずもごはんも)」という大食漢だったそうですが、見知らぬ初老の男が突如、お寺の家族に加わり、若き寺庭の園子ママもそれなりに大変だったのではないか?と思い、このころの事を園子ママにたずねてみました。


「食事?さぁねぇ、どうだったかしら?当時西生寺は温泉旅館もやっていたし、人の出入りは多かったからねぇー、(食事は)部屋に運んでいたんじゃないかしら、記憶にないわねぇ。」とのことでした。ただ晩翠さんはとにかくお酒(日本酒)が大好きで「酒さえ与えておけば上機嫌な人」だったそうです。

「晩翠や、おめさんの言うとおり、おめさんが画家なら、ちっと絵でも描いてみないか。」

この住職の申し出に、毎日ぶらぶらと過ごしていた晩翠さんは「絵」を描くようになります。ちなみに晩翠さんは本当に「画家」だったのです。晩翠さんの描く絵は「日本画」で、一升瓶を片手に「弘智法印即身仏一代記」や「ふすま絵」など次々と作品を描いていきました。


この晩翠さんの「製作風景」を、当時小学校入学前だった今の住職ははっきりと覚えていました。お寺の旅館が忙しかったせいもあり、普段あまりかまってもらえなかった住職は暇をもてあまし、たびたび晩翠さんの作業小屋を訪れたのだそうです。

「何を描いているのだね?」
「ふふん…」

「これなぁに?なにを飲んでいるの?」
「酒だよ」

「さけ…へぇ」

絵を描く晩翠のかたわらにちょこんと座り、晩翠さんが筆一本で紙に次々といろいろなモノを描いていくのが面白かったそうです。

さて、冬のある日のことです。晩翠さんがお父さんにある相談をしに来ました。

「お金が欲しい。」

つまり「自分が描いた絵を売ってお金を作りたい。」との相談でした。

そこでお父さんは考えました。

「晩翠の描いた絵を宿泊しているお客さんに買ってもらうのはどうか?」
「いや、でももっともっと高率よく売り上げるためにはどうしたら良いだろう。うーん」

そしてお父さんはひらめきました。

「そうだ!西生寺で猗嫂蕕慮津賢爐鬚笋蹐Α」

お父さんは晩翠にこう言ったそうです。

「晩翠や、いいかね、冬の間にどんどん絵を描きためておきなさい。」


そして春になりました。さっそく計画どおり、西生寺で晩翠さんの「個展」が開かれたのです。より多くの人に来てもらえるように、宿泊客以外の人にも「個展の案内状」も出しました。

さて、気になる「個展で高収入計画」の成果はどうだったのでしょう?

晩翠さんの絵は売れたそうです。荒かせぎ、いや失礼、とにかく「絵」はしっかり売れて、晩翠さんは見事に念願のお金を手にすることができました。


自分の絵を売ってまとまったお金を手にした放浪画家「晩翠」は、さてどういう行動に出たか?
そうです、やっぱりね、個展が終わると早々に西生寺を去って行ったそうです。
長老いわく

「ああいう連中ってや放浪癖が抜けないんだね、留まれないっていうか猖摸Δ帽圓爐箸世姥世辰撞遒辰討辰舛磴辰燭茵」

まさに「来るもの拒まず、去るもの追わず」なのでした。


晩翠さんの狠屬土産爐箸覆辰榛酩福峭庵卷^即身仏一代記(宝物堂展示)」や「ふすま絵(客殿書院)」が、今でも西生寺で観ることができる彼の作品です。(長老が言うには「そこらを探せば、個展で売れ残った絵がしまってあるはず」とのことです)


「かつて日本にはこんな放浪ルンペンをあたたかく迎え入れるような時代があったんだなぁ。」という驚きと、そんな時代を生きた晩翠さんにまつわるお話でした。訪れる者もめっきりと減り、西生寺も家族もみんなが冬眠状態の冬籠もり生活に入ったこの時期になると、西生寺にひと冬のあいだ身を寄せて、雪見酒をたのしみながら春の個展のために、一生懸命に絵を描き続けたルンペン画家晩翠さんのことをふと思い起こすのでした。



※画像左…宝物堂「弘智法印即身仏一代記」:晩翠画
一代記の場面ごとに「掛け軸」で展示してあるうちのひとつで、晩翠の描いた
一代記の中で私が一番好きな絵です。まだ即身仏のお堂(弘智堂)が出来
る前、奥の院に安置された状態を描いたモノと思われますが、山奥のひと気の
ない場所にぽつんと安置された即身仏から発せられる、どろどろした不気味な
雰囲気がよく表現されています。

※画像右…ふすま絵「観自在の龍」:晩翠画
客殿「書院の間」にある、大きなふすま2枚に墨で描かれた「龍」です。
晩翠さんきっての大作だそうです。晩翠さんの酒好きを知っているからか、
龍の表情がどこか陽気で犲鬚某譴辰討い覘爐茲Δ砲盡えます。

【晩翠さんのその後】
晩翠さんはこうして西生寺を去ったわけですが、彼の爐修慮絖爐呂匹Δ覆辰燭里任靴腓Α
西生寺を後にして日本海の海岸伝いに北陸を目指した晩翠さんは、北陸にたどり着い
たのか、着かないうちにかは判りませんが、とにかく「個展」で稼いだお金を使い果たして、
再び寺泊に戻って来たのだそうです。そこでかつて世話になったお寺の紹介で「施設」に
入り、放浪もせず、施設で静かに過ごしてその生涯を閉じたと、聞いています。

★お知らせ
突然ですが、しばらく「おてら通信」の更新をお休みします。晩翠さんではありませんが今年もまた私は「旅」に出ます。1月末出発、バンクーバーオリンピックが始まって、終わって、そして3月、、、。3月初旬に西生寺に帰って来ます。…というわけで3月より「おてら通信」を再開します。それでは皆さん、行って参りま〜す。
(ちなみにここ数回の冬期五輪にはまったく縁のない私です。長野五輪の時は帰国したときには閉会式で、前回の五輪では帰国したら日本中で爛ぅ淵丱Ε◆辞爐流行っていて驚きました。私の行く東南アジアは冬期五輪に不参加の国がほとんどなので冬期五輪はまったく無視状態です。したがってテレビ放映権も取得していません。)


2010/01/11(月)
★たび重なる「老舗撤退」の衝撃…
「大観光交流年」と銘打った昨年の新潟県は、NHK大河ドラマ「天地人」や、予想を越えたドラマの反響、ときめきにいがた国体、芸術祭、JRと新潟県がタイアップした観光キャンペーンなどなど、とにかく話題の尽きないお祭り騒ぎのような一年でした。不況にも負けず、新型インフルエンザにも負けず、初めて実施されたETC特別割引の効果が加わり、県内外から大勢の観光客がどっと新潟県に押し寄せたようです。(ようです、とは西生寺はわりかし通常どおりでしたので(笑)。)

「今年は?」と言うと、目立った観光誘致や目玉となるイベントもなく、昨年同時期の熱気&勢いはどこへやら、(つまりは「例年どおりに戻っただけ。」なのですけど)なんだか「祭りの達成感のあとの脱力感」ではないですが、目指すべき目標が定まらないという感じです。


というよりは、今年ははっきり言って新年早々から新潟県は揺れています。昨年同時期には存在しなかった、暗雲が垂れ込め、重ーい空気が県全体を包んでいるようです。


その最大の理由のひとつは、県民の方なら察しがつくと思いますが、新潟県内(新潟市、長岡市、上越市)にある同系列の3軒の「老舗デパート」が、不況により売上が激減、経営難に陥り、4月末〜6月末までに「同時閉店」が決定しているからです。


「地域の核となっていた老舗デパート撤退」という、突如発表された耳を疑うような、まさかの衝撃的なニュースが県内を駆け巡ったのは昨年の10月半ばでした。長岡と上越は、そのデパートが市内で唯一のデパートなので、撤退は地元商店街にとっても、利用していた市民にとってもかなりの衝撃で、そのショックはいまだ尾を引いています。


新潟市内には他に「三越」と「伊勢丹」がありますが、撤退が決定したデパートは戦中にオープンした一番の老舗で、地下の食料品売り場が特に人気でした。私もB1にある「パン屋」が大好きで、毎日食べるパンはこの店以外のパンは買わないくらいに長年利用していましたので、かなりショックです。


さらに追い打ちをかけるように昨年の12月20日、新潟市内中心部にある、新潟県きっての「超老舗書店の廃業」が突然発表されたのです。まさに寝耳に水、だって昨日もその店でふつうに本を買ったばかりだし(しかも5000円の本)、初めて聞いた時、信じられずにそのまま固まってしまいました。その書店の閉店は急な話で今月末です。まったく心の準備ができていません。

その本屋さんは「北光社(ほっこうしゃ)」と言います。実は「北光社」は我々の兼務する、新潟市内の繁華街「古町(商店街)」のど真ん中にあるお寺(弘願寺)のすぐ近くにある書店で、私も顧客のひとりとして長年利用している本屋さんなのです。(ちょうど私の興味に沿った書籍が豊富でとても気に入っていました)。

この書店の猩景淌扠爐呂垢瓦い任后「江戸時代後期」に開業したというのですから、なんと創業187年!です。
メインストリートの古町十字路にあり、昔から変わらぬ古町の顔であり、「待ち合わせ場所」としても利用され、郷土関連の書籍や新潟文化の発信場所として、長い間新潟県民から広く親しまれてきました。つまり「北光社」はそん所そこらの書店ではなく狷段未塀馘広爐覆里任后


187年間も続く、古町のシンボルだった有名書店がなんで廃業しなければならないのか。。。私は考えると今も悲しみで顔がゆがんでしまいます。(※実質的な原因は、日本全体に言える若者の本離れ、書籍ネット販売の拡大、大手大型書店進出、不況など各種要因が重なったためです。もちろん廃業は、経営努力を重ねた末、断腸の思いで下した決断です。)

しかも最悪なことに、撤退が決まったデパートと北光社書店とは、その古町十字路をはさんで向かい合っているのです。「中心部の顔」となっていた2つの老舗の撤退は古町地区にとって大打撃で、古町好きな私にはもう傷の癒えようがありません。。。

「もう、がっかりだよ、閉店なんて。パン屋も本屋も私の好きな店ばっかり無くなっちゃうし、何でよ!」

廃業発表後、古町を行き交う人々のこの2店舗に向けられる爐泙覆兇鍬爐気になります。変な話ですけど、私は廃業発表後も、ふだんと変わらずに本屋の店内を忙しそうに動き回っている、顔なじみの北光社の社長さんをまともに見られなくなってしまいました。(社長さんのモットーは「ベストセラーよりも一生そばに置いておきたいと思える本を提供すること」だとか、、、)

すっかり気落ちした私の意識過剰ぶりは留まるところを知らず、北光社で本を選んでいる人や、立ち読みをしている人々を見ても変な詮索に気をとられ、本を選ぶ心境にもなれません。

「何食わぬ顔をして本を見ているけど、きっとこの人だって今、頭の中は廃業の2文字がぐるぐると渦巻いているにちがいないんだ」とか、ね(笑)。レジでのやりとりの会話を聞いても、勝手に狄瓦寮辞爐鯀Шしてしまうありさまです。

店員:「この本はお取り寄せになります。」
お客:「どれくらいかかる?」
(※心の声:(えっ、取り寄せって今月末の廃業日に間に合うのか?)」
店員:「3日ほどお時間をいただきます。」
(たぶんお客さんも廃業日が気になっているんだろうなー)
お客:「じゃぁ、お願いしようかな。」
(やっぱり店内にある本を買えば良かったかなー、在庫整理っていうか…)

なんて事を想像して、会話を聞くだけで勝手に心が痛くなります。
そんな私も、ふだんは本にカバーをしない派だけどつい「記念に。(もちろん心の声)」とカバーをお願いしてしまいました。


リーマンショック以降、古町商店街にある何軒かの老舗専門店がすでに廃業しており、現存している個人経営の専門店も厳しい経営にさらされていると聞きます。同地区に弘願寺を持つ我々からしても、古町地区の衰退ぶり(いわゆるドーナツ化現象)は寂しい意外のなにものでもありません。

新潟市や新潟県は、郊外や他地区へと人の流れが変わり「衰退が止まらない古町地区の再生」を緊急課題として、昨年来より会合を重ねていますが、具体的な打開策は打ち出せていません。

がっかり、寂しい、古町ショック。しかし伝統的な商店街衰退は古町に限らず、地方では当たり前にどこでも耳にする話です。そんなわけで「私なりにできる事を見つけて、そしてそれを実践しよう!」と自分会議、開きました。

中越地震や中越沖地震のたび重なる被災で「県内各地、いろんな分野で震災復興が当たり前」の新潟に暮らしていると、「どうせ使うお金なら、がんばっている地元新潟にお金を落とそう。」と自然と心がけるようになった私ですが、いままで以上に「今年はがんばっている個人経営の専門店で買い物をしてみよう!」と思い立ちました。ついでにこれを「新年の抱負」にしてしまうことに決めました。。

さっそく古町にある「老舗文房具店」で、買い替えをしたかった「地球儀」を買いました。(初代地球儀は嫁入り道具として持って来たものでソ連崩壊直後!と古い…)今は受付寺務所もお休みで一日中自分の部屋にいるので、手元に置いて気になった時にすぐに眺め、気がつくとついつい10分−20分はクルクルしています。

ちなみにこの文房具店は「ボールペン一本(定価126円)」を買うにしても、正統派の大変気持ちの良い接客をしてくれます。同じ商品を一本105円で売っている、しかもレジは常に行列ができている近くの「百円ショップ」で買うよりも、わずか21円を余計に支払うだけで、ゆったりと買い物をたのしめ(試し書きもし放題)満足感も味わえます。


あ、今ふと「そういえば狄いだおれ太郎爐罵名だった大阪の老舗食堂の閉店は派手だったなー」と急に思い出しました。惜しみ惜しまれつつも、閉店をひとつのイベントとして盛大に盛り上げた店主と客。そんな大阪人とはうらはらに、新潟人は多くを語らず、「残念だけど仕方がないか…」と自らを納得させながらも、精一杯あるったけのねぎらいの気持ちを胸に秘め、静かにカウントダウンの時間を過ごしていて、県民性の違いが現れているなーと思いました。


※画像…商店街「個人商店」の看板ネコ
撤退を決めたデパートや書店を今ごろになって写真に収めることは私にはどうしても
出来ず、代わりに個人商店の看板ネコに登場してもらいました。この美しいトラネコは
貴金属のショーケースの上が定位置で、いつも堂々とした店番ぶりを発揮してます。
お客さんが商品を眺めようとしても、ショーケースの上から容易にどいてくれないのがたま
の難点。さすが貴金属店のネコだけあって、体毛だけでなく目までがゴールドです。
名前は「ユーロ(ヨーロッパ)」と言います。


2010/01/02(土)
★虎・寅・トラ










皆さん、新年明けましておめでとうございます。
平成22年、西暦2010年、仏誕2576年…今年も新たな一年が始まりました。

天気予報では「雪だるまマーク」となっていましたが、この辺りは予想されていたほどには降らずほっとしています。しかし日本海からの冷たい北風が吹きつける、寒〜い年明けとなりました。

小雪の舞う北風ピューピュー(※実際は境内の木々が強風にあおられて発するゴーッ!ゴーッ!というものすごい音です)の寒い中を、西生寺まで初詣の参拝に来られる方、新しい「お守り」や「お札」を求めにわざわざ遠くから来られる方も多く、新年のあいさつが交わされます。

「寒い中ご苦労さまです。今年も一年よろしくお願いします。」
「いえいえこちらこそ…毎年この時期にお参りに来るんですよ。」

今、3日の「年始会(檀家さんが集まる)」で配る「お札包み」や、年始会の昼食に出す「紅白なます」作りを終えて、山積みに送られて来た「年賀状」を家族別に仕分け、「ひとまず休憩をしよう」と自分宛ての「年賀状」だけを部屋に持ち込みさっそく読みはじめました。

神奈川県川崎市より縁あって新潟の西生寺に嫁いで20年、私の故郷の川崎から両親が他県へ引っ越してからは特に、学生時代の親しかった友人ともすっかり疎遠になってしまっています。そんな友人たちから送られてくる年賀状を一枚一枚丁寧に目を通すひとときが、どこへも出られず3日の「年始会」の支度に追われる私にとっては、お正月の唯一の楽しみとなっています。

「冬」は西生寺も我々家族も狹潴仮態爐里茲Δ覆發里如△気蕕棒稙傘薪召一切できない私は、これから先も正真正銘の犹に籠もる日々爐続きます。まぁ「冬とはそういうもんだ。」ととっくの昔に諦めていますので、平常心を保ちつつ「冬ごもり生活」を少しでも楽しく快適に過ごす工夫に、私の今持っている全エネルギーを注ぐ決意なのであります。


そうそう「おてら通信」も少しだけリニューアルをしました。分かりますか?これまでより「文字」を少し大きくして、文字間のスペースも広げて読みやすくしました。

それでは今年も一年「西生寺」をどうぞよろしくお願いいたします。
(たくさんのお参りがありますように…。)


※画像左…タイ寺院の虎オブジェ「1」
※画像右…タイ寺院の虎オブジェ「2」

家族とお寺に参拝に来ていた女の子がひとりで虎の上に乗って遊んでいました→「1」。
私が唐突にカメラを構え一枚写真を撮ると、女の子ははずかしがって急いで虎から降りて、
虎の下に隠れようとしたところ滑ってしまいました→「2」。
私のお目当ては女の子ではなく、今年の干支を考えて「虎のオブジェ」だったのですが、
オブジェのそばに腰をおろしていた家族は女の子に「ポーズを決めてかわいらしく笑うように」
と指示を出していました。


2009/12/30(水)
★ゆく年くる年…











今年も残すところあとわずかとなりました。新年を迎える実感のないままに正月の準備も佳境に入り、現在ラストスパートです。

庫裏の大きな「神棚」をきれいにして(まさに"棚おろし")、弘智堂・本堂など各お堂の大そうじ&お花あげ、30ヶ所以上に「おそなえもち」をあげる、松飾り&しめ縄つけ、庫裏&書院を1月3日「年始会」用にテーブルを出して部屋を整える、塩数の子・ぜんまい・黒豆をひたすなど古典的な「おせち料理」の下ごしらえなどなど…。

お寺関連のやることが多すぎて犲分たちの暮らす部屋の大そうじ爐砲泙納蠅回らぬまま「なんだかもういいよね」って感じで最低限の整頓となります。お寺はバリバリの正月モードなのに。(っていうか、正月色ゼロの普段と全く変わらない居住区がやけに落ち着きます)

「お正月」は「家族やご先祖さまと新年をお祝いして、気持ちをあらためて出発する。」という意味がありますが、仏教では1月1日の「元旦」を爍海弔猟爐判颪い董峪按(さんちょう)」と呼び、特に大切な日としています。

「三朝」とは「1日の始まりの朝、ひと月の始まりの朝、一年の始まりの朝」の、3つの始まりの朝という意味ですが、3つともが揃うのは一年を通してたった一日だけで、それが1月1日の「元旦」です。

そんな特別大切な元日の朝(三朝)には、西生寺では朝いちばんに、毎年一年分のお札を御祈祷します。そして「あんころ餅」を作り、お仏壇、位牌壇と全ての仏様にお供えをします。

ちなみに我々の元旦の朝食は「大晦日」にいただいたおせち料理の残り(こっちでは大晦日におせちを食べます)と、塩引き鮭やトト豆(塩いくら)、根野菜、とうふなどがたっぷり入ったしょうゆ味の新潟のお雑煮「こうとう」を食べます。以後1月いっぱいはお餅が主食の朝食となり、毎日飽きもせず雑煮やあんこ・きなこでお餅を食べ続けます。この期間は、昼食ぬきで早い時間に夕飯(なんと夕方5時30分!)の「一日2食」の食事となります。


…というわけで、今年も一年間西生寺HP「おてら通信」を読んでくださってありがとうございました。
新しい年もきっとこれまでのように、タワイもない内容を爐ままに発信爐靴討いことが予想されます。


「細くてもいいから長〜〜く続けるもんね。」が信条の「おてら通信」です。
ヒマな時、ふと思い出した時など皆さんも爐ままに爐付き合いください。

それでは、良いお年をお迎えくださいませ。


※画像…庫裏「神棚」の棚おろしの様子
庫裏の左右ふたつある「神棚」のうち、左側のアイテムです。
おそうじをするために神棚から降ろして床に並べたところです。
木彫りの大きな「大黒さま&恵比寿さま」を筆頭に、このふたりの神様のセット
はここだけでざっと5つはお祀りしてあります。大黒さまの打ち出の小槌なんかは
特に念入りに拭いたりして…福がたくさん詰まっていそうな背負い袋もふきふき…
床もきれいにして「しめ縄」も取替えました。"すげ"の良い香りが庫裏に広がりました。


※画像右…「金毘羅堂」内部の天井に描かれた「大黒天」
弘智堂のとなりにある「金毘羅堂」ははっきり言ってとっても地味なお堂です。
普段、お堂の扉は閉じられているので内部を覗くことすらできません。
私も爐餅あげ爐乃廚靴屬蠅砲堂へ入りました。だいぶ傷んではいますが、
様々な「天井画」を見ることができます。
壁には見覚えのある半被を着て刀を振るう「新撰組の絵図」も飾ってあり、
なぜ新撰組?と考えさせられたり、じっくりと見るとなかなか面白いお堂です。


2009/12/21(月)
★続・西生寺伝統「塩引き鮭」つくり










17日から降り続いた爛疋雪爐任覆鵑もう新潟は早くも2月頃の真冬モードになってしまいました。「今期はエルニーニョ現象の影響で日本海側は暖冬少雪の傾向。」なんていう気象庁の長期予報を、まともに受けて喜んでいたのも束の間の夢と消えました。


雪に閉ざされた西生寺は、さすがにここ数日間は人っ子ひとり来ませんでした。今日、久しぶりに「おてら通信」を更新するために、パソコンのある冬期閉鎖中の駐車場の「受付寺務所」に来ました。こう積雪があると寺務所にたどり着くまでが容易ではないのです。


母屋の玄関を出て、バリバリと音をさせながら除雪車が作った大きな雪の壁に沿ってボコンボコンの雪道を歩き、除雪された駐車場の広い空間に出るとそこは一面、日中解けた雪が夜間に再び凍りつくという最悪の現象により爛好院璽肇螢鵐爐出来上がっていました。

「わーい、プライベートリンクだぁ!」なんて喜ぶはずもなく、半分泣きながら転倒しないように(以前にこのスケートリンクで顔からまともに転倒してめがねを壊した経験あり)慎重にすり足で少しずつ前進、ようやく目的の寺務所までたどり着きました。


しかし受付のドアの前は、おとなりの宝物堂の屋根から落ちてきた、穴を掘ればすぐに爐まくら爐作れてしまいそうな大きな大きな雪の爐覆濃貝爐できていました。仕方がないので長靴の中に進入する雪を気にしながらも、ズボリ、ズボリと前進してようやく寺務所の中へ入る事ができました。


というわけで、西生寺塩引き作りのその後「完成編」です。地元寺泊沖の日本海で獲れた3匹の鮭が西生寺に到着したのが11月29日。すぐに「塩引き作り」にとりかかり、一週間巻いた鮭を「塩抜き」をしたあと、台所の軒先に吊るしたのが12月9日でした。それから12日間が経過して今日「塩引き鮭完成」と判断し、鮭を取り込みました。


当初「吊るした鮭には気候が暖かすぎるなぁ。」と心配していた住職でしたが、15日からの大寒波は鮭には最高の天候となりました。おかげでこれ以上はありえないほどの寒風にさらされた3匹の鮭は、顔がキリッと引き締り、皮は固くカリカリに乾燥、押すと身はもっちりとした弾力があり、良い状態で熟成された証拠となる犁の嫌な臭み爐倭瓦ありません。


「もしかしたら今年の塩引きってこれまでで最高の出来栄えじゃないの?」
毎年同じような事を言いながら、野球のバットのように一本の固い棒になった「塩引き鮭」を(私は一度でいいからこの棒の鮭で狒膿兇雖爐鬚靴討澆燭ぁ△班ず毎年思います)、これより用途別に解体、切り分けていきます。傷まないように寒い場所で手際よく行います。


切り分けた「上等の身」は正月用(一番良い出来の男鮭を特に分厚く切る)、普段用(冷凍して春ごろまでに食べ切る)など人数分に分けてパックします。しっぽの方の身は、新潟のお雑煮「こうとう」に使います。「頭」と「中骨」はここら辺一帯の郷土料理「鮭のしおから汁」(※大根おろしと酒粕を大量に使った大変暖まる汁)に使います。このように、一匹の塩引きから、捨てる部分は全くありません。


ところで作業は全て住職が行うので、相変わらずここでもただ見ているだけの私なのですが、しつこくその場に居続けるのには理由があります。それは今年の出来栄えを猝8爐垢襪燭瓩法∪茲曚匹ら住職が塩引きを一切れ、焼いているからなのです。


遠めの強火でじっくりと20分かけて焼き上げます。塩引きの焼けるいいにおいが漂う中、いよいよ待ちに待った試食の時です。3週間をかけて完成させた今年の塩引きの出来栄えはいかに?塩加減は?熟成度は?


鶏肉の皮のように、分厚くぱりぱりに香ばしく焼きあがった皮を剥がすと、身との間に熟成の証である糸がしっかりと引かれます。べっ甲色の艶々の身はさっくりとほぐれてジューシー。ひとくち食べると熟成の独特のコクと香りが広がり、昨年は少ししょっぱすぎた塩分も、今年のはほどよく抜けてちょうど良い加減です。

「文句なしのうまさだね。」
「メナ(メス)でこのうまさだから、正月用のカナ(オス)なんてすごい美味しいんじゃないか。」

「早く年越しの日(12月31日)に、でっかいの焼いて食べたいなぁ。」
「来年から3匹じゃなくて6匹くらい作ったら?冷凍庫ひとつを塩引きで満タンにしよう!」



「塩引き鮭」ってなんでこんなに美味しいのだろう。。。実は私も住職も爐發刑埜紊糧媚舛あるとしたら何を食べるか爐決まっています。偶然にふたりとも同じ献立です。それは少し固めに炊いた「コシヒカリのごはん」と、この自作の「鮭の塩引き」、そして自作の鮭の頭と酒粕(さけかす)で作った「しおから汁」の3品です。これに私は大好物の「たくあん」がつけば最高に幸せですし、住職もまた好物の「佐渡のおけさ柿(さわし柿)」がつけばなお良いのだそうです。


もちろん犧埜紊糧媚銑爐鯊圓弔泙任發覆、おなじ献立の食事を冬の間に何度も作り、家族みんなでおいしく食べて、寒くて暗くて雪の多い長〜い越後の冬を乗り切ります。



※画像左…2週間のあいだ軒先に吊るされた「鮭」

※画像右…正月用に決まった今年一番の「男鮭」の切り身


2009/12/09(水)
★西生寺伝統「塩引き鮭」つくり










師走です。新年を迎えるための準備が西生寺でも始まっています。例えば「お札(ふだ)」作り。西生寺のお札はあいかわらず、全ての工程を手づくりで行っています。数種類あるお札は、元旦に御祈祷をしてから1月3日の「年始会」で檀家さんに配ったり、お参りに来られた信者さんに差し上げたりします。一年分をこの時期にまとめて作ります。


それとこの時期に行う、もうひとつ大切な作業があります。新潟の人にとっては昔から切っても切れない縁のあるお魚犧爐悩遒襦岷引き」です。鮭(サケ)と酒(サケ)の年間個人消費量が全国一という、とっても「サケ好き」な新潟では、「塩引き鮭」は新年を迎える大切な「年越魚」でもあります。


長岡市内の神社で毎年11月に行われる行事に、五穀豊穣と無病息災を祈る平安時代から続く「儀式」があります。これは「年魚行事」という儀式で、神前に丸ごとの鮭一匹をお供えします。その鮭を宮司さまが、直接魚に手が触れないように、長いさい箸と包丁で上手に器用に切り分けていきます。同じような儀式でよく知られているのは「鯛」をお供えするものだと思いますが、新潟では鯛ではなくて、やっぱり鮭なのです。


真ダラやカレイ、ブリ、鯛など「年越魚」は各地さまざまですが、新潟では「鮭の塩引きを食べないと新年を迎えることが出来ない。」とされているので、年の瀬が近づくと新潟の市場には「しめ縄」や「お供え餅」と一緒に、店先にたくさんの「塩引き」がぶら下がり、または箱に入れられて売られています。値段も爐圓鵑らきり爐任后


最近は「塩引き道場」なるものも人気となっているようです。これは犧の街爐箸靴突名な、新潟県村上市内にある「イヨボヤ(鮭)会館」で、サケ漁が始まった11月中旬から12月中旬までの毎日行われている「塩引き鮭作り」の教室のことです(参加費4,500円)。参加者ひとりひとりに一匹ずつ鮭がもらえて、「道場師範」と呼ばれる村上の塩引き鮭作りの名人たちが講師となり、一から丁寧に塩引きつくりを教えてくれるそうです。


しかし、「おせち料理」が当たり前に市販されているのと同様に、鮭の塩引きもわざわざ手間隙かけて手づくりをする家庭は年々減ってきているのが実情です。そんな時代であっても西生寺では住職による手づくりで、毎年しっかり「塩引き鮭」を作って新年を迎えます。


西生寺で塩引きに使われる鮭は、村のお友達の網元の漁師さんが、寺泊沖の日本海で「定置網漁」で獲った狠聾記爐虜です。毎年その中から選りすぐって型の良い大きな大きな最高の鮭を届けてくれます(大きい方がやっぱり皮も厚く身も美味しい)。カナ(オス)2匹とメナ(メス)1匹です。(※雄雌を言う「カナ&メナ」は鮭だけに用いる専門用語です。)今年の「鮭漁」は、信濃川などの川で獲れる鮭は豊漁だったそうですが、海で獲れる鮭は少なかったとのことです。


それでは「塩引き作り」にまいりましょう。魚をおろす時に手こずるのが魚特有の爛魅瓮雖爐任垢、犧のヌメリ爐和召竜の群を抜いています。塩引き作りはまずこの昆布汁のような、松前漬けのような、鮭を覆う犇烈なヌメリ爐鮗茲襪海箸ら始まります。

そのあと、腹を開き、内臓をひとつ残らず取り出して、びっくりするくらいにあふれ出る(鮭の血の量はハンパじゃない)大量の血もきれいに掃除します。内臓&血は完ぺきに掃除しないと、臭みや傷みの原因になるので大切なポイントなのだそうです。


鮭を洗ったあと、いよいよ「塩」をします。使う塩は村上市の北にある山北(さんぽく)地区で作られている特産品の「笹川流れの塩」を使います。その量は3匹で1.5キログラムと相当な量です。頭からしっぽ、腹、エラの内側まで、決して手落ちがないように、たっぷりと手早く塩を引いていきます。すーっ、すーっと鮭に塩を塗りこんでいく作業が牘を引く爐茲Δ覆里如岷引き」と言うのかもしれないな、と思っています。


たっぷりと塩に包まれた鮭は、「米袋」で固めに巻いておよそ一週間のあいだ、塩がまわるまで屋外に置きます。この、袋で巻いて塩をなじませる期間や、その後の干す期間は、その家庭や塩引き専門店でそれぞれ違うようです。西生寺では一週間巻いたあと、2日間「塩抜き」をして少し塩分を抜いてから、雨雪のあたらない風通しのよい軒先にぶらさげて、約2週間「吊るし干し」をして寒風にさらし、熟成させます。寒ければ寒いほど、旨味が増すそうです。


そうそう、取り出した内臓はおいしい一品となります。白子や肝臓、心臓はショウガを効かせた「佃煮」にします。メスのハラコ(筋子)は「醤油漬け」にします。まず筋子の「膜」を少しだけ割り、粒を傷つけないように、まるで布巾でもしぼるかのように、そっとそっと筋子をねじります。すると「手品」を見ているように、しぼった先から(意外と簡単に)イクラの粒がぽろぽろと飛び出してきて、あの見慣れた美しいイクラの粒がボール(皿)にあふれます。


住職の作る「イクラの醤油漬け」は、イクラの風味を損なわないように、なるべく醤油を少なめにして塩を効かせ、イクラに汁を吸わせて水っぽくないのが特徴です。イクラ漬けはご飯とのりにも最高に合いますが、我が家では、マーガリンを塗ってイクラを乗せたカナッペ風トースト、名付けて「いくらパン」を一度は必ず食べるのが狃椶量爐箸靴導擇靴澆砲覆辰討い泙后


数年前に、寺庭婦人会の「秋の親睦旅行」で村上を訪れたことがあります。その時の昼食に、村上市内にある「鮭料理」で有名な料亭で「鮭尽くし料理」をいただきました。この時に出された「鮭コース」のメインとなる、料亭自慢の「塩引き(焼き鮭)」は、皮と身の間で糸を引く、完ぺきに熟成された猖槓の塩引き爐如◆屬気垢は村上の塩引きだなぁー。」とうなる美味しさでした。(※糸を引くのは寒風干しの証)。


しかし「切り身」はあまりにも上品に小さく、あっという間に食べてしまいました。(その後、村上の寒風干しの塩引きは、なんと一切れ1,000円以上!することが分かり驚きました。)


この時の旅行で、住職の作る我が家の塩引きが、鮭の質(大きさ・獲る時期)、熟成、風味(塩加減)、美味しさと、どれをとっても有名な「村上の塩引き鮭」と全くひけをとらないか、使う「鮭」が良い分それ以上であることが分かり自信を持ちました。


身を好きなだけ(とてつもなく)分厚く切って、業務用の本格的な魚焼きマシーンでじっくりと焼いた、我が家の巨大な塩引きに勝るものはない、と確信したのでした。(こういうの、手前味噌と言うのでしょう…)


というわけで、今年も台所の軒先にお腹に割り箸を入れた3匹の鮭がぶら下がりました。白目むき出しの形相で右に左に硬直した体を大きく揺らしながら、日本海から吹く強い北風を必死にかわしている姿を見ると、毎年のことながらも何ともいえぬ可笑しさが込み上げてくるのです。


※画像左…今年の鮭の顔(両側がオス、中央がメス)
オスメスとここまで顔の違う魚も珍しいくらいに、鮭は顔を見るとすぐに性別が分かります。
メナ(メス)の顔はつるんと丸く、本当にやさしい顔をしているのに対し、カナ(オス)の顔は
上下あごがしゃくれて目つきも鋭く、ピラニアみたいな恐い形相をしています。
身がおいしいのは断然オスです。メスはハラコに養分が取られ身も薄く味も劣ります。

※画像右…牘を引く猴融
見えているのは住職の手。塩引き作りは狠砲了纏爐世半ー蠅忙廚辰討い泙后
したがって私は一切手を出しません。
(否、作れないから手の出しようがない、の間違いでした。)


2009/11/27(金)
★佐渡の野生トキがついに寺泊にやって来た!











佐渡で「野生復帰」のために昨年放鳥された爛肇爐、ついに私たちの暮らしている寺泊(長岡市)にやって来ました。県内県外と拠点を転々とするトキ情報に、「寺泊にもトッキーが来ればいいのになぁー」とこの一年ずっと言い続けてきた私ですが、まさか本当にトキが来るとは思いもよらず、夢が現実となりました。


今回滞在中のトキは、佐渡から本州へ渡ってきた爍咳のメスのトキ爐里Δ舛琉豈です。このトキは寺泊に来る前は、数ヶ月間を新潟市西区の海岸エリアで暮らしていました。個体番号が「13番」なので「かずみちゃん」と呼ばれています。爐ずみちゃん爐蓮∈甘呂ら本州へ渡ってきて県内県外を転々としたあと、いちど佐渡に戻っていて、それから再度本州へ渡って来るという「超行動派のトキ」です。


国立新潟大学キャンパスのすぐそばに「ねぐら」があったので、新潟大学はかずみちゃんに「飛来学生証」を発行しました。そんな矢先、海岸沿いに少し南下して港町寺泊へと移動して来たのです。


「ねぐら」はまだ確認されていないようだけど、11月16日に初めて寺泊で確認されて以来、毎日同じ場所(田園エリア)に出没して「エサ」を食べているそうです。


「(佐渡)トキ分散飼育」の候補地に名乗りをあげていた長岡市は、トキの分散飼育を行う事が正式に決定してします。現在、長岡市の中心部にある「悠久山公園小動物園」で、犇畛種トキ爐痢峪邯鎧育」が行われていますが、将来的にはここ寺泊(夏戸地区)に施設を建設して、正式な「トキ分散飼育」を行う事も決まっています。


ちなみに今現在「寺泊の施設」はまだ全然できていません。「完成予想図」が最近ようやく発表されたばかりで、それによると本年度中に設計、来年度に工事着工、再来年の平成23年に完成する予定だそうです。
我々寺泊の住民が「寺泊でのトキ分散飼育の詳細がようやく目に見えるようになった」と思っていたちょうどその時、寺泊にひと足早く猖槓のトキ爐やって来たのでした。


実は(本州で最後まで野生トキが生息していた)石川県能登市の「いしかわ動物園」とか、他の「トキ分散飼育」を予定している所よりも長岡市はだいぶ出遅れたスタートなのです。


環境庁の視察では「単に佐渡の対岸にあるだけ、(佐渡と)同じ新潟県であるというだけで選ばれた感がある、他の候補地に比べ実績がない、取り組み方があまい、施設さえできていないではないか。」などなど、耳の痛い厳しい指摘ばかりをいただいていましたが、今回のトキ飛来で「寺泊は野生トキだって暮らせる良い環境の場所ですよ」と、環境庁にアピールできたに違いありません。


この間、「近似種トキの試験飼育」が行われている、長岡市内の悠久山小動物園に、トキを見に行ってきました。(ここは、環境庁に指摘され、寺泊での施設が完成するまでの間、苦肉の策で新設された臨時飼育施設です。)


飼育されている近似種トキは「クロトキ」と「ムギワラトキ」で、今年は「人工ふ化」が成功してかわいいヒナも誕生しました。来年の目標は「自然にふ化させること」と、別の近似種を増やし、ふ化と飼育を試みる事だそうです。


長岡市では猖槓のトキを飼育するための登龍門爐箸靴涜臉擇飽蕕討蕕譴討い襯ロトキやムギワラトキなどの犇畛種トキ爐任垢、昨年住職と「佐渡トキ保護センター」を訪れた時に見学したクロトキは、なんだかちょっとかわいそうでした。



ガラスをへだてた遠距離を、望遠鏡などでしか観察できない、広くて日当たりの良いゲージでのんびりと過ごす「本物のトキ」とは違って、クロトキのゲージは出口にあり、おまけというか、素通りというか、無視というか、せまいというか、ずいぶんと差別された扱いに思えました。


(白い羽以外はくちばしも足も真っ黒、不毛の頭や顔は黒い皮膚がむき出しのクロトキは、ハート形の真っ赤な顔と足、淡いサーモンピンクの羽を持つ優美で美しい猖槓のトキ爐鮓たた直後には、なおさら見劣りしてしまう感じは否めません。)


報道ではトキの保護を考えて「寺泊地区」としか発表されていません。寺泊地区といっても広いので、トキが出没している場所が寺泊に住んでいる我々にも特定できず(残念ながら我が野積地区ではないことは確か)、今「おてら通信」を書いているうちに、私はどうしてもどうしても知りたくなって「寺泊支所」に電話をしてみることにしました。


案の定、「知っていますが、教えられません。」と、あっさりと言われてしまいました。しかしあきらめきれず「トキが好きで佐渡まで行ってトキを見学し、放鳥以来、ずっとトキを見守ってきた。そんなトキがついに地元まで飛んできて、うれしくてうれしくて仕方がない」などと、自分の「トキ好き」をスピーディーにアピールしてみました。


すると「お待ちください。」と言われ、担当の方に代わってくれました。
「そっと見守ってくださいね。」と前置きをした上で、こっそりと「場所」を教えてくれました。やったー。

「○○地区」。私の住む野積地区からちょっと離れているけれど、そこはいつも私が買出しに行くスーパーへの通り道エリアでした。

「よし!次の買出しの時には注意深くゆっくりと運転してみようっと。」


今回の「拠点移動」の理由は、繁殖期に入りパートナーを探しているとも言われており、この寺泊滞在も単に移動の中継点に過ぎないのかもしれません。そうだとしても、かずみちゃんには一日でも長く寺泊に留まっていてほしいものです。


※画像左…長岡市内で試験飼育されている「クロトキ」

※画像右…悠久山公園内の「近似種トキ飼育ゲージ」


      クロトキは、東南アジアや中国の一部に生息するトキです。トキは意外な
      方面でも昔から人間と深く関わった歴史を持つ鳥でもあります。
      古代エジプトのミイラは有名ですが、人間のミイラの他にもエジプトでは多く
      の動物をミイラにしました。なかでも「トキ」は神に仕える神聖な動物とされ
     爐燭瀬潺ぅ蕕砲垢襪燭瓩世韻量榲で大量のトキが飼育されていた爐修Δ任后
                 (ミイラ用の動物飼育は一大産業になっていました。)

     「動物専用の墓地」からは、個別の壷(つぼ)に入れられた「トキのミイラ」が
      なんと400万羽!も発見されています。ミイラにされたトキの種類が気にな
      るところですが、やっぱり?というか主流は爛ロトキ爐任靴拭帖
                         (エジプトのクロトキは絶滅しています。)

     ミイラ仏(即身仏)のお寺の住人だから、という訳ではないですが、私はエジプト
      のミイラとか、○○のミイラとか、ミイラがわりかし好きです。


★うれしい追加情報!【11月30日(月)】
寺泊に新たにトッキーが飛来して来ました。今年9月に放鳥されたメスのトキです(個体番号は5番です)。しかも寺泊に滞在中のかずみちゃんと見事に合流を果たし、2羽一緒に行動をしているそうです。今年放鳥されたトキで本州へ飛来するのは初めてとなります。ちなみにこの5番ちゃんは、今佐渡で12羽の群れになっているトキとは別で、放鳥以来、単独行動を続けていたトキです。

★ちょっと寂しい追加情報!【12月23日(水)】
12月15日から始まった大寒波と大雪で寺泊に滞在していた2羽のトキは17日の朝を最後に狆誕不明爐砲覆辰討靴泙い泙靴拭積雪で田んぼでの爛┘気箸雖爐不可能になってしまったためとみられています。
魚沼などの山間地の水の張ってある田んぼで越冬するかもしれないとのことです。
(ちなみに後にやって来た5番ちゃんは足輪の色がオレンジ色なので「ミカンちゃん」と呼ばれていました。)

★またまたうれしい追加情報!【12月31日(木)】
大雪以降、寺泊地区より姿を消したトキ2羽のうち、メス13番のトキ爐ずみちゃん爐再び寺泊地区に舞い戻って来ました。しかし一緒に行動していた5番ちゃんはいまだ消息不明のままです。


2009/11/14(土)
★森繁久弥さんと満洲−興安嶺のオオカミ−











冬の積雪のころより、季節を通して毎日毎日飽きることなく、というよりはむしろ関心の目で見守り続けた部屋から見える一本の柿の木。今年はついにひとつも実をつけないまま落葉が始まり、葉っぱも残すところあと7枚になってしまいました。


俳優の森繁久弥さんがお亡くなりになりました。96歳という長生きをされ、まさしく大往生。家族、お孫さんに見守られながら、おだやかに息を引き取ったとのこと、正直うらやましくなりました。息子さんは「親父と家族でとても面白かった。ありがとうって言いたい。最高の父親でした。」とコメントをしていました。


森繁久弥さんは、面白い話をして人を笑わせたり、和ませたりするのがとっても上手だったと聞きます。私の世代での森繁さんは、すでに森光子さんと並ぶ大御所で、白いあご髭をたくわえた黄門さまのような風貌で、若い女優さんのおしりをさわったりするのが大好きな?(芸能界で唯一その行為が許されていたとか)、陽気で明るい元気なおじいさんといった位置付けでした。


そんな森繁さんですが、20代のころは大学を退学してまで目指した俳優をあきらめ、人生最初で最後となる猛勉強をして(本人談)、超難関だったアナウンサー試験に合格します。1939年(昭和14年、シナ事変より2年が経ち、ノモンハン事件勃発の年です)、NHKのアナウンサーとなり26歳で満洲国首都にある「NHK新京放送局」へ赴任します。(※「満洲勤務」は日本でもらえるお給料の他に猜斑麓蠹て爐箸靴藤抗笋眈緇茲擦気譴燭修Δ任后法この満洲時代を回想した森繁さんのエッセイを久しぶりに読み返してみました。


NHKの局アナの仕事をしながら、局公認の内職?で「満洲映画協会(満映)」にも入りびたり、多くの映画制作(文化映画班)にもたずさわっています。森繁さんらしいなめらかな口調で豪快かつ愉快なエピソードが載っていますが、なかでも「興安嶺(こうあんれい)のオオカミ」の話が私は好きです。


これはあるとき、東京のNHKから「興安嶺のオオカミなどは録れないか?声だけなら何とかなるだろう」という注文が森繁さんのもとに届きます。「満映」に問い合わせると「オオカミの声はウチにはございません。」と言われ、北満の大山脈「興安嶺」に狃伉キ爐垢襪海箸砲覆蠅泙后


キャラバン隊を編成し、食糧、録音器、発電機などたくさんの器材を積みこんだ関東軍のトラックで出発、大興安嶺の奥地に暮らす「オロチョン族」の集落で降ろしてもらいます。(この集落は以前の狃伉キ爐任垢任妨鯲があり、森繁さんは村長のお気に入りとなって養子に誘われている←もちろん断わる)ここで3晩張り込みをするけれどついにオオカミは現れません。大失敗で新京の局に戻り、困り果てた森繁さんに、強力な助っ人が登場します。


それは局に入社したばかりの朝鮮人の男の子です。
「オオカミの声録りですか?大丈夫です。興安嶺のオオカミならボク知ってます。」
と、何でもないことのように言う彼に
「君ね、声色で爛Εーッ爐箸じゃ駄目なんだよ。」と、疑いつつもさらに話を聞いてみると、つまりは「新京駅」近くの、児玉(源太郎)元帥を記念して造られた「児玉公園」の檻(おり)の中に、オオカミが一匹飼われていて、看板には「興安嶺のオオカミ」と書かれているとの話でした。


さっそく寝静まった深夜に録音機材を担いで「オオカミの声録り」の再挑戦となります。行ってみると大きな金網の中に爐呂欧辰舛腓蹐欧織轡Д僉璽匹澆燭い陛曄平紅肪漫法蹐いて、しかし看板には歴然と「興安嶺の狼」と書いてあったそうです。


どうやってこの爐呂欧辰舛腓蹐欧織轡Д僉璽匹澆燭い陛朖爐鯔覆┐気擦燭里?
森繁さんが言うには、ポケットから1個のハーモニカを取り出して出鱈目(でたらめ)に吹いたら、急にオオカミはランランと目を輝かして、一声、二声吠えたのだそうです。間違いなくオオカミの声は録れ、東京のNHKは喜んだそうです。(その後森繁さんは小遣い稼ぎにこの貴重なオオカミの声を満映に売り込もうとしています。)


また、森繁さんは終戦翌年の5月から本格的に始まった「満洲の日本人引揚」にも大変尽力されています。森繁さん家族のいた新京では終戦のあと、満洲東北部地方の奥地から、ソ連兵や中国人の襲撃に遭いながら、大勢の日本人開拓団の人々が命からがらの逃避行の末、身も心もぼろぼろになって新京の「避難所」にぞくぞくと集まってきました。(新京だけで避難所に収容された避難民の数は数万人にのぼります)。


森繁さんは、避難して来た同胞の、変わり果てた悲惨な姿を見て大きな衝撃を受けたそうです。この年の暮れに「翌春より在満邦人の日本への引揚げ(帰国)」が決まり、その引揚港とされた「コロ島(地区名)」への中継地点として南部の錦州市に大規模な日本人収容所が造られました。


新京やその他の都市の「避難所」での越冬は大変厳しいものでした。満洲からあらゆる物資を強奪し尽くすと、避難民に対してほとんど無関心だった満洲進駐のソ連軍は、ろくな援助もしないまま、寒さ、食糧不足、医療不足、不衛生、伝染病の蔓延で「避難所」では多くの犠牲者を出しました。そんな厳しい冬を越え、帰国が決まった避難民たちが順番に列車で移送されて、錦州やコロ島に集まりました。


一方、やれる事はなんでもやり、なんとか新京での冬を越した森繁さんは、仲間と「慰問団」を結成して錦州へ行きます。引揚げを待つ日本人や、現地の中国人も招待して「慰問芸能」を行っています。森繁さんは続々と列車でやって来る、冬を生き抜いてかろうじて錦州までたどり着いた、衰弱した避難民たちにふれ、「このまま錦州の収容所に残り、帰国する日本人の世話をしよう、最後のひとりが日本へ帰国するまで自分は満洲に留まろう」と決意を固めます。


奥さまを説得した森繁さんは、撤退したソ連軍に替わって満洲を管轄した中国に委託された、現場で邦人引揚げ者の世話をする「錦州居留民会(日本人会)」のメンバーとなり、以後満洲引揚げが完了するまでの半年以上を、収容所で日本人引揚げ者の世話をして過ごします。こうして41万人を送り出したあと、森繁さん家族は満洲を去るのです。


私にとっての森繁さんはどちらかというと、役者としての森繁久弥というよりは、こんな満洲時代を語られる方、という印象のほうが強かったように思います。あの世では最愛だった奥さまとおよそ20年振りの再会をされておられることでしょう。心からのご冥福をお祈りいたします。


※画像…宝物堂に展示中「タイリクオオカミ」のはく製

お話の「興安嶺のオオカミ」はたぶん、この「タイリク(大陸)オオカミ」
かと思われます。これは2年半前に、縁あって一般のお宅より
西生寺に奉納されて以来、宝物堂に展示してある「オオカミ夫婦
のはく製」です(手前がオスで奥がメス)。

本当は御祈祷をして焼却する予定でしたが「燃やさないでくれー」
と、オオカミの懇願の声が聞こえたので(祈祷担当の長老談)、
「いい子にしている」を条件に、宝物堂の仲間入りを果たしたのでした。
※西生寺に来る前は爐舛腓辰醗い子爐世辰燭澆燭い任后

絶滅してしまった日本オオカミの倍以上はある大きな大きな狼で、
訪れたお客さんは一様に「でっかーい!」と驚きの声をあげます。
大陸オオカミはユーラシア大陸に今でも生息している狼で、西生寺
のオオカミ夫婦も、たぶんロシアあたりで捕われて「はく製」にされて
から日本に入ってきたものと思われます。


2009/11/05(木)
★越後猿八座「弘知法印御伝記」-この一年を振り返って-










およそ300年前の江戸時代初期に、日本橋の人形浄瑠璃一座により上演された「越後國柏崎 弘知法印御伝記」のモデルとなったのは、ご存じ当山の「弘智法印即身仏」です。上演だけでなく、御伝記は「読み物(本)」としても刊行されました。しかしこれらの事実は、その後まったく世に知られることはありませんでした。

昭和37年(1962年)、鳥越先生(現:早稲田大学名誉教授)が、英国の大英博物館の本棚から偶然、その「本」を発見したことが全ての始まりでした。


江戸時代に「弘智法印即身仏」を、庶民の娯楽としてとりあげた「人形浄瑠璃」が存在した事実を、我々西生寺が初めて知った時の驚きは鳥肌の立つようなすごいものがありました。弘智様が即身仏となったのは鎌倉時代末期の1363年ですので、この江戸での上演時ですでに300年が経っていることになります。


それに加え、あくまでも「信仰の対象」として弘智様を守り、接してきた我々にとっては「弘智様が娯楽の対象」となっていた事も新鮮な驚きでした。(御伝記の内容は弘知法印の一代記で、弘智様が弥彦村の長者の息子で、若い頃柏崎の遊郭通いをする遊び人だったという設定なども重ねてびっくり!)


さらに、その幻となってしまった「弘知法印御伝記」を復活上演するために、なんと座員を募り「一座」を立ち上げて「平成21年(2009年)の復活上演を目指して活動を始めた」と知った時も「まさか!本当ですか!」とこれまた衝撃でした。


そんな数々の衝撃からおよそ2年。今年の西生寺は予定どおり行われた「越後猿八座」による「弘知法印御伝記」の300年ぶりの復活上演で湧いた一年でした。6月7日の「柏崎産業会館」での初演から、7月には新潟県民会館での2日間の公演、9月は真言宗智山派「得生院」と続き、先日11月3日に行われた「上越国際大学講堂」での公演をもって今年の「弘知法印御伝記」の上演はすべて終了いたしました。
( 11月4日の新聞(新潟日報)でも「越後猿八座の熱演に市民ら330人が盛んな拍手を送った」と、上越公演の様子が紹介されていました。)


そんな「上越公演」を間近にひかえたある日のこと、「越後猿八座」代表で「三味線弾き語り」をしておられる越後角太夫さんが、西生寺にあいさつに来られました。現在「越後猿八座」は新発田市内に稽古の拠点を築き、座員のみなさんの熱意は変わらず、今年最後の「御伝記」上演に向けて、熱心に稽古を重ねているとのことでした。


「人形遣い」として活躍されるメンバー全員が、まったく浄瑠璃人形を扱ったことのない素人からのスタートで、一年と半年で見事に柏崎での初演を成功させたのです。今の目標は全員が全部の役柄を演じられることだそうです。仕事を持っている座員が多いので出演の都合がつかない場合もあるそうで、誰もがどの役柄でも演じられるようにして爐茲衙全な体勢爐鮴阿┐襪箸里海箸任后


全六段からなる「弘知法印御伝記」は、全段上演をすると3時間以上にもなる大作です。これに関しても、見どころをぎゅっと凝縮した「短めバージョン」などの「アレンジ版弘知法印御伝記」なども考えているそうです。


「御伝記」の醍醐味のひとつに、迫力満点情緒たっぷりの三味線の弾き語りがあります。物語では主人公の弘知法印以外にも、家族(子供)、弘法大師、村人、馬、熊、狼、天狗などたくさんの人形たちが登場します。三味線の弾き語りに合わせた人形の動きは時に繊細に、時にユニークで笑いを誘い、また思いもよらぬ展開で驚きの声をあげたりと観る者を魅了します。(一般民衆など脇役の人形の何げない動作ひとつとっても芸が細かくて面白いです。)


上演の中心となる大切な「三味線弾き語り」ですが、大英博物館で発見したのは「弘知法印御伝記」の原本だけで、江戸時代に上演された時の「楽曲」の記録は残っておらず、現在の上演で我々が聴いている節はすべて演奏する越後角太夫さんが手がけたものです。


「音の記録が何も残っていない中で、物語(浄瑠璃本)に合わせての作曲はさぞや大変だったことだろう。」と思っていた私は、さっそく本人にたずねてみました。


角太夫さんは
「いやいや、当時の江戸時代の世相や、御伝記を書いた(座長の)孫四郎さんのことなどを想像しながら、きっとこういう節がついていたのだろうと、あれこれと考えて作曲をする作業が一番楽しかったですよ。」とおっしゃっていました。


(※その角太夫さんの弾き語りに合わせて人形を動かす「人形遣い」の座員の方に言わせますと、その日の気分?によって角太夫さんの弾き語りが微妙に変化するそうで「あれ?まだ(節が)終わらないの?今日は長いなぁー」とか思いながら人形を操っているそうです。)


そんな越後角太夫さんですが、上演の交渉など「来年度の越後猿八座」を視野に置いた活動をすでに始めておられるそうで、この方にかぎっては「今年も無事に終わったなー」などと感慨にひたっている暇はどうやらなさそうです。なんと「東京公演」も想定しているそうです。これからも「弘知法印御伝記の越後猿八座」として積極的に活動を続けていくそうです。


私たち西生寺にとっても今年はいつになく刺激的な一年でした。座員の方や、越後猿八座の公演を観て「西生寺の即身仏に興味を持った」と拝観に来られる方も大勢いらっしゃいました。お陰さまで西生寺ホームページのアクセス数も格段に増えた年でした。サイト運営をしている私としては、とってもとってもうれしい事です。


また300年ぶりに見事によみがえった「弘知法印御伝記」と「即身仏霊場西生寺」とのこのたびのご縁を機に、私自身があらためて「本家本元である西生寺の弘智法印さまの生い立ち」について強い興味を抱き、これまでよりさらにくわしく「弘智さまの生い立ち」についてを調べ直すことにもつながりました。(※ぜひ「弘智法印即身仏」のページをご覧下さい。)


今年の「おてら通信」は、この「越後猿八座」や「弘知法印御伝記」関連について、たびたび紹介をしてきたのですが、残念ながら過去ログ全部が消滅してしまいました。「今年の上演はすべて終了です。」と、越後角太夫さんのお話をうかがったところで、今回はこれまでを簡単に振り返って書いてみました。


角太夫さんは、私がドナルド・キーンさんのファンである事を知っておられて、私への「おみやげ」としてキーン先生直筆のサインが入った先生の著書をくださいました。わお!
(ドナルド・キーンさん(現:コロンビア大学名誉教授)は、「越後猿八座」立上げの推薦人のおひとりで、越後角太夫さんと親しく、常に越後猿八座の活動に関心を寄せてくださっている方です。)


※画像左…「越後猿八座」の稽古風景

※画像右…大英博物館で「弘知法印御伝記」を発見された
        鳥越文蔵先生(左)と、鳥越先生が現代語に訳
        した「御伝記」を「君の好きそうな本がありますよ」と
       越後角太夫さんに紹介した ドナルド・キーン先生(右)


2009/10/30(金)
★「おてら通信」復活!














お待たせしました。「おてら通信」が復活しました。

いったい何が起こったのか?

爐海譴泙任両況爐魎蔽韻棒睫世靴泙垢函◆憤貶的な)サーバ側の故障が原因で、この「西生寺HP」のアップロードをやり直す作業の中で、おてら通信用のCGI(ソフト)が使えなくなったのです。正確にはソフトが狆談猫爐靴討靴泙辰燭里如∈禿戰愁侫箸鬟瀬Ε鵐蹇璽匹靴董⊃卦に設定をしなおしたのでした。
(今、ちょこちょこっと更新ができる「ブログ日記」が盛りですが、このソフトはそれ以前のブログ風の日記ソフトで、私はこれが気に入っていて今回も復活させました。きままに更新する「おてら通信」にも合っているように思います。)


実はおなじパターンのサーバ側が原因のトラブルはこれで2度目で「またか(怒)!」という感じです。


3年6ヶ月前に、同サーバのトラブルによるアップロード作業で、おてら通信「2年分の過去ログ」が消え、今回は、その後〜前回までの「過去ログ3年6ヶ月分」全てが再び消えたのでした。

「あっちゃーもったいなかったねー、バックアップを取っておけば良かったのにー」

と、惜しんでくれるありがたい声も聞かれるのですが、私としては「何も無くなったのなら、それはそれで良いではないの。」とさばさばした心境です。だってこれから、これまでどおりに、また「おてら通信」を発信してゆけばよいのですから。。。


という訳で文字通り、白紙の状態での再スタートとなりました。これからもきままに更新していきます。牴甬遒鮠辰鍬爐垢辰りさっぱりと身軽になった「おてら通信」をこれからもよろしくお願いいたします。


以上、
牴甬遒鮠辰擦襦屬てら通信」がちょっとうらやましかったりする犹庭婦人阿刀直子でした。


※画像左…秋の西生寺狷中
       駐車場から撮影した「宝物堂」とケヤキの原生林。
       早くも「落ち葉の季節」到来で、園子ママ(お姑)の
       「境内が爐兇譴海辰抬爐蚤僂┐蕕譴覆ぁ帖廚箸いΑ
       おなじみのセリフが今年も聞かれるようになりました。
       ちなみに「もみじ」はようやく色づいてきた程度で
       「樹齢800年の大銀杏」はまだ青々としています。

※ざれこっぺ…新潟弁で「散らかっている」という意味。似たような
         ニュアンスの新潟弁で、私がよく園子ママに言われ
         る小言で「ママ爐靴腓辰燭讚爐和膩い!」という
         言葉がありますが、こちらは「だらしがない」という意
         味です。あ、ちなみにお母さんは潔癖症です。

※画像右…秋の西生寺猴縞襪讚
       このあいだ、境内の「永代供養墓天翔園」より撮影しま
        した。空気が澄んでいる今頃が一年で一番夕日が
        美しい季節なのだそうです。
        だからなのか、このごろは天気の良い日の夕方に
       「シーサイドライン」を車で走りますと、別名「日本海夕日
       ライン」と呼ばれているだけあって、アマチュアカメラマンの
       人たちが、夕日をカメラに収めようと、各自お気に入りの
       ポイントでカメラを設置してシャッターチャンスを待つ姿を
       多く目にするようになりました。
      「日本海夕日フォトコンテスト」なんてもの毎年あるようです。



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shiromuku(hu1)DIARY version 3.10