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2010/09/01(水)
★山古志「アルパカ牧場」に行こう!











長岡市山古志地区の「油夫集落」に今年5月にできたばかりの「アルパカ牧場」に行ってきました。山古志といえば「闘牛」なのに、ふってわいたように突然「アルパカ牧場」なのです。しかもアルパカの愛らしい容姿に、一度その姿を見たら、アルパカの魅力にはまる人続出とか。。。

5月の連休のころ、初めて山古志の「アルパカ牧場」の存在を知り、すっかり「アルパカの愛らしさ」にとり付かれた私は、以来「アルパカ牧場」のアルパカの写真が載った新聞記事をいくつも切り抜いて「アルパカアルバム」を作り、気持ちがモンモンとしたときなどに、こっそりながめては気分転換をして過ごすようになりました(ちなみに「佐渡の朱鷺アルバム」もある)。

「 アルパカってアンデスとかにいる動物でしょ、なんでアンデスのアルパカが山古志にいると思う?」

「見てよこの瞳。アルパカっていつも笑っているみたいな愉快な顔なんだよ。」

「行ってみたいなー、気になるなー、アルパカ見たいなー、連れて行って欲しいなー。」

「いつか会える日」を夢見て、運転手として必要不可欠なのに「アルパカ」に無関心の夫(住職)の興味をひくため、アルパカのぬいぐるみを買って目に付くところに並べたり、アルパカアルバムを見せたりなどなど、3ヶ月くらいかけて行われた夫への「宣撫工作」は大成功。

ついに先日猊徂愬梓雖爐箸覆辰織▲襯僖達に会いに夫婦で山古志「アルパカ牧場」へと行ってきました。お目当ては赤ちゃんアルパカ「ムク」と、私の一番のお気に入り、クリーム色のメスの「ピュアーワン」に会うこと。

それにしても「なんで山古志にアルパカ?」なのでしょう。

それは、「中越地震復興に役立てて欲しい。」と昨年11月に、アメリカコロラド州で牧場を経営する方から、山古志に「アルパカ」3頭が寄贈されて、飼育をはじめたのがきっかけなのでした。さらに今年5月末に、コロラド州の同牧場から新たに購入した「アルパカ」3頭が長旅の末、山古志に到着。合計6頭となり「アルパカ牧場」として一般の人にも牧場を訪れてアルパカを見学できるような態勢が整ったのです。

そして6月9日には初めての赤ちゃん「ムク」が誕生。赤ちゃんの「名前」を募集したこともあり、いっきに「アルパカ牧場」は山古志地区の新しい人気スポットとなったのです。現在6頭のアルパカと、赤ちゃんアルパカ(メス)の合計7頭が飼育されています。

同じ長岡市内だけど、海手の寺泊から山手の山古志まではけっこうな距離。山古志地区に入り、手づくりのかわいらしい「アルパカ牧場」の看板を目印に、山間集落の道を車でぐんぐんのぼってゆくと、集落の小さな広場みたいな場所に「アルパカ牧場」はありました。夕方遅かったのでお客さんも我々だけのようです。まだ柵も新しく、造りたての感じで清潔感があります。アルパカを紹介する「パネル」も展示されていて、「アルパカ募金箱」なるものも設置してあります。牧場一帯は発酵した干草のにおいなのか「牛の牧場」と同じにおいがします。

「そうか、アルパカってラクダ科だから、のんきな笑っている顔なんだ。」

そして、柵の中にはアルパカ数頭の姿が。すぐに赤ちゃんアルパカも見つけました。アルバムの写真よりもふたまわりくらい大きく育っていました。それにしても写真でしかみたことのなかったアルパカたちが今、我々の目の前で口をもぐもぐさせてのんびりとくつろいでいる姿に早くもコーフン。

6月に初めての「毛刈り」が行われたためか、思ったよりアルパカたちの毛がすっきりしていて、思いのほか「首」が細くて長いのに驚きました。そうそう、私はここで初めて「アルパカの鳴き声」をききました。赤ちゃんアルパカの母親「ドリー」が発した声で、「そばにいる子供を守るため、我々に対する「威嚇行動」で発した声と思われます。

それは「鍵盤ハーモニカ(ピアニカ?)」を一本指で適当に「ぷーー」と鳴らしたような不思議な声で、「えっ、今の鳴き声?」みたいな声でした。スマイリーな顔で我々を真剣に見つめています。さらにこれも威嚇行動なのか、一本の足をトン!と地面に叩きつけて「音」を出しました。これは2回くらいやりましたが、どれもこれも「これって私たちに対する威嚇?」と気付くまでかなり時間がかかりました。

母親が「威嚇行動」をしているその脇では、夕暮れ時ということもあってか、暑かった一日を終え、ごろんと干し草の上に寝そべって、安心しきった赤ちゃんアルパカが無防備な姿をさらしていました。地面の干し草に、横たえたココア色の体をゴロンゴロンとしているので、体中がすっかり干し草と土だらけになった「ちょっとばっちい感じ」の赤ちゃんアルパカは、「お眠(ねむ)」なのかとろんとまぶたを閉じてうつらうつらとしながらも、干し草をもぐもぐと「寝喰い」していました。

母親ドリーは柵から頭をのぞかせ、相変わらず視線をそらすことなく、スマイリーな顔で我々をじーーーっと見つめ続けています。

この時ふと、私は昔読んだ本で「アルパカやラマは気に入らない人に対して、相手を見つめたまま、ゴボゴボと妖しい音をたてて胃から突然狆嘆獣罎諒体爐鯏任つけるので注意しましょう。」という一文を思い出しました。「そろそろやばそう。」と、急に恐怖を感じ、退散することにしました。我々が車に乗り込んでその場所を去るまで、母親アルパカはしぶとく柵から我々を見続けていました。

アルパカはとてもおとなしく、エサも牛と同じ干し草が主なので、手がかからないそうです。また冬の寒さにも強いそうで、気候風土が山古志に合っているのだそうです。山古志地区では昔から「闘牛」が盛んで、身近に人と牛が一緒に生活をしているし、「山古志牛」ブランドで食用の「牛」も飼育しているので、初めて飼育することになった「アルパカ」もすんなりと受け入れられたのかな、とか思いました。

気になる「アルパカ牧場」今後の戦略ですが、しばらくはアルパカをどんどん繁殖させることに力を入れるそうです。ゆくゆくはアルパカの毛(高品質なウールで高級品とされる)で「毛織物」などを製品化して「まちおこし」に役立てようという計画らしいです(by山古志アルパカ組合)。

「ずいぶん気の長い計画だなぁー」と正直思いますが、似たような事で「まちおこし」を考えている行政を最近知りました。それは五泉市(新潟県)です。「五泉のニット」と言われるほど五泉市は昔から「ニット産業」が盛んな土地です。そんな五泉市にこのたび「モンゴル」から交流のシンボルとして「カシミヤヤギ」5頭が譲渡されるそうです。なんでも「カシミヤヤギ牧場」を作り、カシミヤヤギを軸とした「地域づくり」を目指す事は、五泉市市長さんの公約なのだそうです。

「アルパカ」も高級ウールで知られていますが、「カシミヤ」といえば高級ウールの代名詞です。新潟県内は「山古志アルパカvs五泉カシミヤ」の「高級ウール対決」みたいになってきました(なってません)。しかし「なんでここに居るの?系○○牧場」がそんなに地域おこしになるとは思えないのですけれど…どう思います?
(同じく県内阿賀町にある「ダチョウ牧場」に群れる、食肉にされる計画も頓挫し、処分することも出来ず、仕方なく死ぬまで飼っているというだけ(実情は知らないが)の「ダチョウ達」の悲哀さは胸がチクチクするものがあります。)

※ちなみに「アルパカ」と「ラマ」の違いですが、どちらもペルーのインカ帝国時代にはすでに家畜化されていました。体が大きい「ラマ」はとても丈夫で力持ちなので「運搬用」として飼育され、小柄な「アルパカ」は上質な毛がとれるので「毛皮用」に飼育されています。アルパカは「動くモップ」状態になるまで極限まで毛を伸ばし、2年に一度「毛刈り」を行い、一頭から約30キロの毛がとれるそうです。(以上、地元「寺泊図書館」で調べました。)


≪山古志「アルパカ牧場」≫

【場所】:山古志油夫集落「山古志小中学校」そば
※ アルパカのイラストの入った茶色の手書き看板「アルパカ牧場」の看板が目印。
【駐車場】:あり(広め)。※直接牧場までも乗り入れられる。
【見学】:いつでも0K(ただし冬期は種芋地区の牛舎に入るので牧場不在)
【問い合せ先】:長岡市山古志支所
【電話(支所)】:(0258)−59−2330


※画像左…赤ちゃんアルパカの「ムク(メス)」
ココア色のモコモコの質感がたまらない。美脚。

※画像右…お気に入りの「ピュアーワン(メス)」
いつだってこんなスマイリーな顔。
実は赤ちゃんアルパカ「ムク」とこの子は同じ母親から
生まれた姉妹でした。


【追伸】:悲しいお知らせ
まさか…
この原稿を書きあげた日の夜、赤ちゃんアルパカ「ムク」が熱射病で死んだことを知り、言葉もありません。我々が訪ねたちょっと前まであんなに元気にしていたのに、信じられません。
3日くらい前から急に具合が悪くなり、横になったまま動かなくなったムクの体に水をかけたりと、看病にあたっていた集落の飼育係の方の腕の中で、午後2時頃息を引き取ったそうです。今思うと、ちょうど私がアルパカの文章を書いたり、ムクの画像を処理して「いつまで見てても飽きない、やっぱりかわいいよね。」などと歓声をあげていた時を同時に、ムクは体の熱が引かず、もうろうと生死をさまよっていたのでした…。
生まれて3ヶ月もたたないうちに、あっという間にこの世を去ってしまうなんて思いもよらないことで「これからも牧場を訪れて赤ちゃんアルパカの成長を見守ろう。」とたのしみにしていた私はかなりショックを受けています。かわいそうなムク…
元気に生きていた頃の愛らしいムクのことを綴った今回の「おてら通信」は、哀悼の気持ちを込めて(題名も文章も)すべてそのままで載せることにしました。


2010/08/20(金)
★越後長岡ツーデーマーチ「山古志&良寛ウォーク」参加者募集!











昨年に引き続き、今年も2日間で2ヶ所の「長岡地域」を歩く「ウオーキングイベント」が9月18日(土)、19日(日)に開催されます。今年は「★第2日目(9月19日)」の「良寛ウォーク」で、当山西生寺の「展望台」と、希望者の方には「弘智法印即身仏」の拝観がコースに組み込まれました。


これまで数回にわたり、長岡市の担当の方が西生寺に打ち合わせに来ています。下の寺泊野積地区の「のづみ海水浴場」からスタートして「弥彦山登山道」を登り、最初のポイントが「西生寺展望台」なのですが、聞けば前回は2日間でおよそ1500人の参加があったそうです。

「そうですか。けっこう大勢の方が参加されるのですねー。」と軽く言いつつ、内心ちょっと動揺気味。

だって今年もきっと500人を越える参加者があるとして、野積海水浴場からいっせいに「西生寺」をめざしウォーキングを開始、、30−40分かけて次々と次々と「西生寺」に姿を表すわけですよ。そんなに大勢の人が一度に大挙して「西生寺」にやって来るなんて、西生寺の歴史が始まって以来の事態です。迎える側の私たちも「当日はどうなるのだろう?」と不安半分、興味半分です。

さらに、長岡市の担当の方から
「希望者には有料で即身仏の拝観をお願いできませんか。」


との申し出があり、さらに動揺が深まる私たち。。

「いったい何人の方が即身仏を拝観をするのか?」
「ほんの一部の人なのか、それとも数百人規模なのか?」
などなど「当日にならないとまったく検討もつかない。」と言うではないですか。

滞在時間も限られているとのことで、通常のご案内では時間切れとなってしまうし、「即身仏のお堂」だって入れるのは100人がせいいっぱいの人数です。

「限られた時間と大勢の人を、どういう方法でご案内をするのがベストなのか?」
いろいろと検討した結果、「良寛ウォーク」参加者専用に牋豌鵑世鵜狢┸畔のご案内をすることに決まりました。

「手順」としましては「即身仏拝観」を希望する方は、

1.到着後、駐車場の「受付寺務所」で申し込みをしていただく。
2.ご案内の開始時刻は「10時15分」とする(1回のみ)。
3.ご案内開始の場所は「受付寺務所」前で、時間までに集まっていただいてまとめて住職がご案内をする。
4.ご案内時間は20分間とする。

というような感じです。

そんなわけですので、「即身仏拝観」を希望する方は、西生寺に到着したらまず、駐車場にある「受付寺務所」で拝観受付をしてください。「拝観料」は通常団体料金は大人おひとり「400円(こども200円)」ですが、サービスで特別に「大人・高校生ひとり300円/小中学生ひとり100円」とさせていただきました。


実は「良寛さま」は西生寺に半年ほど仮住まいをされていました。西生寺滞在中は「弘智法印即身仏」を参拝し、弘智さまの遺された「辞世の句」に感銘を受け、「弘智法印の像に題す」の漢詩を残しています。

良寛さまゆかりの地を歩く「良寛ウォーク」で、ぜひ良寛さまもお参りをした、西生寺の弘智法印即身仏を拝観してみませんか。無料の「宝物堂」には、良寛さま直筆の「長唄」などが展示されており、自由に見学ができます。


もちろん「新潟県景勝100選」第8位の「西生寺展望台」からの眺めは最高ですよ。晴れていれば日本海の水平線、佐渡ヶ島、信州のアルプスまで見渡せます。しかし今回は人数が多いので、ネコの額のような狭い展望台ではちょっと窮屈です。そこでもうひとつの狎箏陛庫哨好櫂奪鉢爐鬚款匆陲靴泙靴腓Α

それは、展望台の下の左側の「石段」を登りきったところにある「永代供養墓苑-天翔園-」です。広々とした園内からは、展望台同様のすばらしい眺めを、ゆったりとたのしむことができます。


≪ご案内≫ ※越後長岡ツーデーマーチ「山古志&良寛ウォーク」パンフレットより

『越後長岡ツーデーマーチ「山古志&良寛ウォーク」』

実りの季節を迎え、山里の魅力あるれる秋の山古志。波の音を聞き、潮風を受けながら歩く良寛さまゆかりの地寺泊。越後・長岡の魅力を存分に味わえる2日間です。

【申し込み締切】:2010年8月31日(火)
          ※当日「会場」での申し込み参加もできます。
【参加費】:大人2,000円(当日申し込みは2300円)、中学生以下は無料。
      ※一日だけの参加でも、2日間参加でも同額です。

【長岡市民特別料金】:一日だけ参加の場合大人1,000円
              (当日申し込み1,100円)といたします。

【申し込み方法】:参加申込書に必要事項をご記入の上、お近くの郵便局または
           ゆうちょ銀行にて参加費をお振り込みください。
          (参加申込書配布場所:新潟県内の新潟日報販売店、
           長岡市役所、各支所、長岡市内の公共施設)

【お問合せ先】:新潟県ウォーキング協会
【問合せ電話番号】:025−225−4857(受付時間:平日9:30〜17:30)
【主催】:新潟県ウォーキング協会
【共催】:長岡市、新潟日報、NST、日本ウォーキング協会

★開催日:2010年9月18日(土)「1日目:山古志ウォーク」
【集合場所】:長岡市山古志支所

《23キロコース》
長岡市山古志支所スタート→風口峠→萱峠展望台→種芋原→羽黒トンネル→ゴール
《11キロコース》
長岡市山古志支所スタート→古志原スキー場→木籠→羽黒トンネル→ゴール

★開催日:2010年9月19日(日)「2日目:良寛ウォーク」

【集合場所】:寺泊野積海水浴場(駐車場)
【集合時間】:午前8時受付開始
【スタート時刻】:午前9時30分
※良寛ウォークにて「西生寺即身仏を拝観」される場合には別途拝観料が必要です。
 (大人・高校生300円、小中学生100円)
 (ご案内開始時刻:10時15分。およそ20分間)
 (西生寺駐車場「受付寺務所」でお申し込みください)

《19キロコース》
野積海水浴場スタート→西生寺展望台(即身仏拝観)→朝日山展望台→五合庵→ゴール

《11キロコース》
野積海水浴場スタート→西生寺展望台(即身仏拝観)→野積河川公園→ゴール


※画像左…西生寺「展望台」からの景色
日中の景色も良いですが、夕暮れ時が一番好きです。晴れた日
の沈みゆく真っ赤な夕日や、雲間をオレンジや赤に染める幻想的
な夕焼けを、たまーにムショウに眺めたくなる時があって、そんな時
は母屋を抜け出して天翔園へ登り、ひとり夕焼け空にひたります。

※画像右…永代供養墓「天翔園」
どこまでも広がる雄大な日本海が見渡せる山の斜面に造られた
西生寺の「永代供養墓苑」です。名称の「天翔園」は、墓苑が
まるで天空にあるような狎箏吻爐望める立地なので
「天にむかって飛翔する場所」という意味で「天翔園」と名付けま
した。もちろん各種タイプがある「永代供養墓」も、随時申し込み
を受け付けております。(資料もご用意しています。)


2010/08/08(日)
★「即身成仏」と「即身仏」の違い











生きていれば111歳。東京都足立区男性では最高齢とされてきた方が、実は30年前に亡くなっていて、その男性の遺体が自分の部屋でミイラ化されて発見された、という報道はほんとうに驚きました。

この事件がきっかけとなり、各都道府県ではいっせいに「高齢者の所在確認調査」が行われるという思わぬ展開となっていますが、所在不明の100歳以上の高齢者の数は日増しに増えて全国で100人に達する勢いです。

その足立区の男性が生前、最後に部屋に籠もる時、「自分は即身成仏したいから、絶対に部屋を開けるな。」と家族にきつく言い渡したそうです。家族は「2年目くらいにこっそりと部屋を覗いたら、白骨化した頭が見えた。」とも証言してますが、とにかく男性の言いつけを守り、こんな結果を招いたようです。この報道をよりいっそう「奇妙で異様な感じ」としているキーワードが「即身成仏」という言葉ではないでしょうか。

実は、初めて全国ニュースでこの事件?が報道されるその日の昼間、西生寺にテレビ局から電話がきて、くわしい説明もないまま「ニュースに使いたいので、ホームページにある西生寺さまの即身仏の画像を使わせてもらえませんか。」と依頼があったのです。

どういう内容に弘智さまの画像が使用されるのかもイマイチよく判らないし、急なことだったので「うちの弘智法印即身仏は、全国に大勢の御信者さんがいて、信仰の対象となっている仏さまだから、ちょっと遠慮させていただきます。」とお断りしたのです。

そして夕方、「足立区に住む111歳の足立区最高齢とされた男性のミイラ化された遺体を発見、男性は即身成仏したいと生前家族に言っていたようだ。」というニュースを見て「あっ、これか!」と察しがついたのでした。その後家族が男性の年金を「不正受給」していた事などが発覚し、「やっぱり弘智さまの写真を許可しなくてよかったねー。」とほっとしたのです。

そんなことがあったのですが、これとは別に「思わぬ反響」もあり、私たちは大変おどろいています。それは「即身成仏したかった男性がミイラ化」などの言葉の影響なのか、この日以降、西生寺のこのホームページにアクセスする人の数が急激に増えたことです。どう考えても、この報道の影響しか原因は思い浮かびません。ま、大勢の方に「西生寺のサイト」を見ていただけることは、それはそれで大変にうれしいことなのですけどネ。。

それはそうと、今回の事件で私はちょっとばかり「知識が混乱」してしまいました。

この男性は「即身成仏したい」と言って部屋に籠もり、「ミイラ化」された姿で発見されたということなので無理もないのですが、テレビ局が即身仏(ミイラ仏)の画像を使いたいと思ったことや、こうして現在も当山のサイトに多くのアクセスがあるという情況からも、どうやら「即身成仏」と「即身仏」がごっちゃになってしまっているようなのです。

いや、そもそもこの男性が「即身成仏したい」と言って部屋にこもったその時点で解釈に間違いが生じていたといっても良のですが。

何が言いたいかと申しますと「即身成仏」と「即身仏」は言葉は良く似ていますが、実は全く関係がない、全く意味が違う言葉なのです。
と言いつつも「たしかに違うはずだけどどう違うんだっけ?忘れちゃったな。」と私自身もすっかりあやしい。

うだる暑さで溶けかかった脳みそをフル回転させて、弘智法印即身仏さまをお守りする寺庭婦人の名にかけて、今回は「即身成仏」と「即身仏」の違いについてちょっと整理してみたいと思います。

まず「即身成仏」とは「真言宗」独自の思想で

「この身とこの心が、仏さまと同じ心を持って生きていること。」
「常に仏と一体であるということ。」
を意味します。

「即身成仏」について、長老(お父さん)にたずねたところ、本人いわく 「今の自分みたいな心境」を言うのだそうです。

長老:「わたしはね、これまでの80年の人生を精一杯生きてきた。山あり谷あり、色々とやりとげてきたから、もうこの世に未練はない。気持ちにも、病んでいる今の体にも未練はない。」

長老: 「この世に何の未練もなく、仏の境地に達している精神と肉体のことを即身成仏している、と言うのだろうなぁ。」


私:「じゃぁ、生きているからこそ、即身成仏していると言えるわけだね?」
私:「死ぬために、死後を考えて、即身成仏するわけじゃないんだよね?」

私:「つまり弘智さまが行った即身仏になるための修行を、即身成仏するとは言わないんだよね?」
私:「即身成仏したいからと言った足立区のミイラ化しちゃったおじいちゃんの解釈は間違っているってことだよね?」

長老:「そういうことだ。」

私:「うっほー(ちょっと違いがわかった喜びの声)。」

私:「じゃあさ、仏さまと同じ心をもって生きていることが即身成仏で、お父さんが即身成仏しているということは、同じお坊さんの住職(夫)ももしかして即身成仏しているという事なの?」

長老:「どうかな。住職はまだ若いから、これから成しとげなければならない事がいっぱいあるから、今、即身成仏しているとはいえないなぁ。」

住職:「なに言っているだ。若い人でも即身成仏の心境に到達している人はいるんだ。」
と反論。

その時は長老に押され気味だったのですが、後から住職の見解も聞くと「なるほど」と思えるものでしたので、どうぞ。

住職:「実は、全員が仏と同じ心を持っている、すなわち即身成仏しているのだけど、それに気付いていないだけさ。」
    「それに気付こう!というのが真言宗の修行なんだなあ。気付くという事が大事なんだよ。わかるかな?」

私:「 確かに。何事も気付かないと意味がないかもだね。」

私:「ということは即身成仏するのは別にお坊さんに限ったことではないんだ。一般の在家の人もOKなんだ?」
住職:「もちろん。」


さて、一方の「即身仏」は、ご存知のように人間の姿そのままを「仏」としてお祀りしている「弘智法印即身仏」のような仏さまのことを言います。

「即身仏」となる事を決心した行者さんは、即身仏となるための「専門の厳しい修行」を行い、最後には生きたまま地下室にこもり、息絶える瞬間まであぐらをかいた姿勢のまま読経を続け「御入定」されます。お弟子さんや信者さんたちはずっと見守り続け、やがて遺言どおりに「即身仏」となった行者さんを地下から取り出して埋葬せずに「お祀り」をして、長い年月を何代にもわたって信仰し、大切にお守りしてきました。

この「即身仏とはどういうモノか?」という説明とは別に「なぜ即身仏になろうと決心をしたのか?」という疑問がわきます。

これについては「弥勒信仰」に基づいた、ひとつの考え方としてこんなことが推測されます。

○生きているうちに「肉体と心が仏」になっても、つまり「即身成仏」しても、やがて肉体は滅んでしまう。
○肉体が滅んでしまえば、魂だけとなり、この世の無情から人々を救うことはできない。
○ 永遠に肉体と心を一体化させることが出来るとすれば、その唯一の方法は「即身仏」となることだろう。
○「即身仏」となり この世に生きつづければ、自分の姿を拝む者の心に飛び込んで、永久に人々を救うことができだろう。

というような心境になったのではないでしょうか。

真言宗「高野山」の奥の院には、現在でも「即身仏」となった「弘法大師さま」が御入定されています。もちろん御開帳は一切行われておらず、そっと手を合わせてお参りするのですが、「即身仏となられたお大師さま」にならって、真言宗では「即身仏」になろうとする行者さんが多かったともいわれています。

「即身成仏」と「即身仏」の違いがお分かりいただけましたでしょうか。
もしかしたらそんなにこだわる必要もなかったのかもしれませんが、やはり即身仏をお祀りしているお寺の住人としては「混同」を見過ごすわけにはいかず、この機会に自分自身のためにも整理してみました。


※画像左…「即身成仏」をしている長老さま

※画像右…「即身仏」の弘智さま


2010/07/27(火)
★弘智法印即身仏の実家「鈴木家」と「蓮花寺」さま訪問の旅











前々から「一度は訪れてお参りをしたい!」と思っていたことが実現しました。それは千葉県匝瑳市八日市場大浦地区にある、弘智法印即身仏さまのご実家である「鈴木家」と、弘智さまが「全国仏教伝導の旅」に出る前まで長い間住職を務めていた、菩提寺でもある「蓮花寺」さまを表敬訪問することでした。真夏の猛暑日が続くさなかの7月21日(水)、住職とふたりで一泊二日で行ってまいりました。

弘智さまをお祀りする当山「西生寺」と、千葉の「鈴木家」や「蓮花寺」さまとの交流は、600年以上も昔から現在まで途切れることなく続けられてきた大切な絆であり、これを「わたしたちの代でもしっかりと継承していかなければならない。」との思いは以前から持っていました。

2年前に蓮花寺若住職さまが引率した「蓮花寺参拝団」が西生寺を訪問していただいた時にはじめて意識するようになり、今年5月に、鈴木家当主の鈴木高次さんを筆頭にした「参拝団」のお参りの時にピークに達しました。

そしていつしか純粋に、
「弘智さまの生まれ育った風土を肌で感じたい。ご実家と、ゆかりの蓮花寺さまをお参りしたい。」
「弘智さまの故郷で作られている巨大な大浦ごぼうが実際に植えられている姿をこの目で見てみたい。」

との思いが強くなり、夫の住職に「千葉訪問の旅」を唐突に提案したところ、「よし、それならばさっそく表敬訪問しようではないか」と、7月15日の「大般若」が終わった後に「日程」を組んだのでした。(5月の西生寺訪問の際に、鈴木さんが「今は定年退職をしたので毎日が日曜日なものですから、いつでもお待ちしていますよ。」とおっしゃられた言葉がしっかり頭にはりついていて、平日族の私たちには大変助かる平日訪問となりました。)

それにしても本当に行って良かった。。。

「実際に訪れてみなければ分からないことがいっぱいある。」とはまさに今回の訪問のことです。昔も今も、広がる風景はほとんど変わらないように思える、田畑と家が点在する、弘智さまの生まれ育った「大浦集落」は、のどかで吹く風がさわやかで本当に良いところでした。鈴木家は車一台がようやく通れる細ーい路地の奥にありました。お庭の先にゆったりと建っている立派なお家でした。(イメージとしては「南国の家」という感じ。新潟とは違う。)

鈴木さんご夫妻と、すぐ近くに住む親戚の方(もちろん名前は鈴木さん)のあたたかい歓迎を受けた我々は、さっそく「鈴木家のお仏壇」にお参りをしました。お仏壇には5月の「おてら通信」でも書きましたが、弘智さまのかもしれない約700年前の「古い位牌」や、弘智さまが彫ったとされる「石像」がお祀りされていているとのことで、お経のあとでじっくりと拝見させていただきました。

弘智さまのかもしれないという「古い位牌」は、真っ黒で文字は確認できませんでした。位牌の形が現代の位牌とはかなり違っていました。今回初めて分かった事は、鈴木家代々の当主の戒名に「弘智」の名がついていることでした。菩提寺でもある「蓮花寺」さまのはからいなのでしょう。

それから、かつて鈴木家を訪れたご信者の方が涙を流して拝んだという、弘智さまの彫ったとされる「石像」ですが、ずんぐりむっくりした荒削りの大変素朴な石像でした。西生寺には弘智さまの書いた文章や、修行の一環で般若心経の一字一字を小石に書いて村に配ったという「石経の小石」はありますが、石像の類はひとつも残されていません。これは弘智さまの遺物としても貴重なモノであり、もちろんご利益もかなりありそうな、ありがたーい石像にちがいありません。

鈴木さんご夫妻やご親戚の方の人柄にもすっかり魅了されてしまいました。「さすがは弘智さまの血を受け継ぐ人たちだなぁー」とやけにうれしくなり、「鈴木家ばんざーい」と叫びたくなり、とても誇り高い気がしました。鈴木さんご夫妻のあたたかい人柄からかもし出される雰囲気がとても居心地が良くて、とにかく心底「鈴木家」が気に入った私は、ホームステイをしたい気分にまで到達してしまいました。

なんていうか、「ここが弘智さまの実家なのだ。」と思うだけで、それだけの理由で自分でも意外なほどに心がやすらぐのには驚きました。こんな心境になるとは思いもよらず、思えばこうして一般の在家が(寺社仏閣ではなく)、同じ土地で700年近くも家系を途絶えさせずにこれまで来たというのは、かなり稀なことなのではないでしょうか。

この後、車で数分の、鈴木家と同じ大浦地区にある「蓮花寺」さまを皆で訪れました。ここでも蓮花寺若住職さまや若奥さま(なんと新婚2ヶ月のほやほやです)、ふだん暮らしている「龍蔵院」さまの住職さま(若住職さまのお父さま)など、家族総出で我々を出迎えてくれました。本堂や内陣、弘智堂など、建て直されてからまだ新しく、何もかもがぴかぴかであまりに立派なので驚きました。まったく何もかもが古く、年季の入っているわが西生寺とは大違いなのです。

弘智さまの木像が納められている「弘智堂」も立派でした。写真でしか見たことのなかった「弘智さまの生前のお姿の木像」を目の前に「ようやくお目にかかれましたね、弘智さま」と心でつぶやきました。

今回の千葉訪問は、私にとっては初めて訪ねた「西生寺」以外の「弘智さまゆかりの地」でした。弘智法印即身仏の原点ともいえる鈴木家や蓮花寺さまの訪問で、とても新鮮な刺激をたくさん受けて帰りました。すでに私の中では犹廚そ仗爾の広爐箸覆辰討い董△△らかに自分の意識が変わりました。

それは、今回の訪問で、これまでにはない少し違った視点から弘智さまを見つめるという「引き出し」がひとつ増えたようで、毎日接している弘智さまに対して、親近感が生まれ信仰心が深まったことです。それと「自分たちの代も、(これまで代々そうであったように)千葉との交流を今後も親しく続けさせていただいて、弘智法印即身仏を大切に、しっかりとお守りしていかなければならないね。」と、住職も私も決意をあらたにし、自然と気持ちが引き締まったのでした。

訪問したこの日は(この日も?)猛暑で死ぬほど暑く、鈴木家と龍蔵院さまでごちそうになった「冷たくて甘い果物」がしみわたるおいしさでした。「メロン」に沖縄産の「マンゴー」に地元産の甘い「スイカ」というラインナップで、暑くて汗をかいたのでいくらでもお腹に入ってしまいました。もしかしたら、これまでの私の人生の中で一番果物を食べた日かもしれません。


この日は船橋市にある私の実家に泊まり、次の日はガラリと趣向を変えて完全プライベートモード。いつものように「靖国神社」と「千鳥ヶ淵戦没者霊園」をお参りしたあと、私が前から行きたかった朝霞にある「陸上自衛隊広報センター(通称:りっくんランド)」を見学して帰路につきました。
(※政府の「事業仕分け」で一躍有名になった陸自の「無料施設」です。れんほう議員のおかげで見学者が激増し、れんほう議員も体験したアトラクション「戦闘ヘリのシュミレーション体験(おもしろかった!)」などは、2時間待ちの日もあったということでした。「来年からは有料ですよ、たぶん。」なんて声も自衛官からは聞かれました。陸自の迷彩柄戦闘服を着て記念写真も撮れるし、自衛隊グッズもいろいろ購入できます。)


※画像左…蓮花寺「弘智堂」で記念撮影
人物左から蓮花寺若住職さまの大津永聖さん(蓮花寺住職、
高校英語教師、学習塾経営、保育園経営と4足のわらじを履く
超多忙なお方)、 当山西生寺住職、弘智さまご実家の鈴木高次さん
(大浦ごぼう栽培にかなりのこだわりをもっているようです)、親戚の鈴木さん
(代々続く大浦ごぼう作りのエキスパート。今回貴重な資料を提供して
いただきました)。奥に見えるのが弘智法印さま生前のお姿の木像です。

※画像右…弘智法印即身仏作とされる「石像」
大きさは手のひらにずっしりと乗るくらいです。思っていたより大きかった
です。私は「南無弘智大士」と宝号をぶつぶつ唱えながら、石像の頭
の部分をなでなでしました。お座敷には代々の鈴木家当主の遺影が
飾ってありましたが、どことなく皆さんのお顔が蓮花寺さまの弘智さまの
木像に似ている気がしました。


※今回の「おてら通信」ではふれませんでしたが、大浦地区の伝統野菜「大浦ごぼう」に関しても大収穫でした。畑で栽培中のごぼうちゃんともご対面、その他色々とわくわくするくらいに見聞を深めることができました。大浦ごぼう関連のお話は、もう少し資料を研究してから、のちほど紹介したいと思います。


2010/07/16(金)
★「お施餓鬼」−始まりのおはなし−










7月15日に、当山西生寺の常例法要のひとつ「大般若会」が行われました。心配していた梅雨の末期特有の大雨も降らず、今年も大勢のお参りがありました。水子供養などのお施餓鬼をお申し込みいただいた方、当日お参りに来られた方、皆さま本当にありがとうございました。

この日は毎年「大般若転読会(だいはんにゃてんどくえ)」と「施餓鬼法要(せがきほうよう)」という2つの法要が執り行われます。

「大般若転読会」は、大般若経「600巻」を大勢のお坊さんで手分けをして一冊づつ「転読」をしていきます。大般若のお経を威勢よく読み上げながら、経典をアコーディオンのようにバサバサっと転読をする時、経典の巻き起こす風「般若の梵風」にご利益があるとされています。

そのあとに行われる「施餓鬼法要(通称:お施餓鬼)」は、大勢のお坊さんの読経と、申し込まれた「施餓鬼のお塔婆」を一枚づつ読み上げて、ご先祖さまや水子精霊など亡くなった方を供養する法要です。


「お施餓鬼」というのは読んで字のごとく「餓鬼にほどこす」という意味です。「お施餓鬼をする、しない」など、お寺に暮らしていると、かなり身近な用語のひとつがこの「お施餓鬼」です。西生寺では一年に一度、7月15日の大般若の日に、大勢のお坊さんに集まっていただいて「施餓鬼法要」を厳修します。また、一般に「施餓鬼法要」は、お葬式や法事で施主の依頼により行われる場合もあります。

真言宗や曹洞宗などの仏教界で広く厳修されるようになった「お施餓鬼」ですが、その爐っかけ爐箸い錣譴討い襪里、「ウラ盆経」というインドの古い経典の中の物語だといわれています。

今回の「おてら通信」は、昨日「大般若転読会」とともに行われた「施餓鬼法要」の、そのはじまりとされる「ウラ盆経の物語」についてお話ししたいと思います。「ウラ盆経の物語」とはいったいどんな物語なのでしょう。。。


≪ウラ盆経の物語≫
インドのお釈迦さまのお弟子さんのひとりに「目蓮(もくれん)尊者」という僧侶がいました。目蓮は狄青摸廊爐得意で、神通力では弟子のなかでは一番の実力をもっていたそうです。その目蓮があるとき、「死んだ自分の母親が今どうしているか、神通力を駆使して探してみよう。」と思い立ったのです。

持ち前の神通力でまず「天界(仏の世界、極楽)」を探ってみました。しかし天界には母親の姿はなかったそうです。続いて「人間界」を探りましたが、やはりこの世界にも母親の姿はありませんでした。

もしやと思い、目蓮は「修羅(しゅら)の世界」を探しましたが、母親は見つかりませんでした。「畜生の世界」も神通力で探してみましたがやっぱり母の姿はどこにも見当たりません。残るは「餓鬼の世界」と最下位の「地獄の世界」のみになってしまいました。

目蓮はまさか…とは思いつつ「餓鬼の世界」を探ってみると、なんとそこに餓鬼の姿と変わり果てた母親を見つけたのでした。髪は抜け落ち、腹はふくれ、のどは針のように細い、みにくい餓鬼の姿をした母親に、深い悲しみと衝撃を受けた目蓮は「なんとかして母を救いたい。」と思い、供養のために母親に「食べ物」を差し出しました。

しかし餓鬼の姿の母親がその差し出された食べ物を口に入れようとすると、食べ物が燃え上がり炎となってしまうので、とうとうひと口も食べることができませんでした。

「どうしたら母親を救うことができるのだろう。」困り果てた目蓮は教えを乞いにお釈迦さまのもとへと行きました。お釈迦さまは目蓮にこう諭したと言います。

「目蓮よ、おまえがいかに神通力第一位といっても、おまえの神通力で母親を救うことはできないだろう。」

「もし、母親を救いたいのならば、7月13日に僧侶が「安居」を終えて遊行の旅に出るから、その時になるべく大勢の僧侶から供養のお経をあげてもらいなさい。そうすれはお経の功徳で、おまえの母親は餓鬼道から救われることだろう。」

目蓮はお釈迦さまの言うとおりにしたそうです。すると、お釈迦さまのおっしゃられたとおり、目蓮の母親は餓鬼道から抜け出すことができたのだそうです。


以上が「ウラ盆経の物語」です。大勢(複数)の僧侶で供養のお経をあげる法要、この世の生きている者が、あの世の亡き者へ功徳を施す法要、そんな「施餓鬼法要」のはじまりとなった、目蓮尊者とお釈迦さまの教えによって餓鬼道から救われた母親の物語でした。

ところで、なぜ目蓮の母親は「餓鬼の世界」に落ちたのでしょう?

それは「自分の息子だけが偉くなればいい。」と、他人はどうでもよく、自分のことばかりを考え、息子を溺愛して、出世をさせようとしたため、といわれています。

それと母親の変わり果てた「みにくい餓鬼の姿」は、ただの空腹のために「食べ物の欲」に飢えている姿ではなく、心が欲求不満になっている姿、これでもかこれでもかと満足しない「人間のみにくい心を現した姿」なのだそうですよ。(耳が痛いなぁ…)


※画像左…7月15日大般若会「法要の様子」
今年は12名のお坊さんに助法をしていただき、
住職と長老を入れて総勢14名でお経をあげました。

※画像右…施餓鬼法要のために準備された「施餓鬼檀」
いろいろとお供えしてあります。くだもの、野菜、花、
水、白米、りいく膳…。
それに五色の施餓鬼旗、三界万霊(さんがいばんれい)
と書かれた位牌もありますぞ。


2010/07/03(土)
★ニイガタ「間瀬大工集団」










梅雨真っ只中です。この時期の西生寺は、朝昼問わず日に何度も濃い霧に包まれます。西生寺の山号は「海雲山(かいうんざん)」といいますが、これは「海の霧」という意味で、海のそばの弥彦山にある西生寺が昔から霧が発生しやすいところで、野積村から見る弥彦山が、いつも厚い雲にすっぽりと覆われていたため「海雲山」という山号がついたと言われています。

そんな霧に包まれた西生寺の霧が、ぱっと晴れるような爐劼箸弔離淵将爐このたび判明しました。

これまで資料や記録が何ひとつ残されておらず、西生寺の歴史の空白期間となっていた、ひとつ前の牴仍で全焼した本堂「阿弥陀堂」爐砲弔い討分かったのです。今建っている「阿弥陀堂」は、昭和3年(1928年)に火事で焼けたあと、昭和6年に再建されたお堂です。その前のお堂、つまり「焼けてしまったお堂」について、いつ建立されたのか、どういうお堂だったのかを初めて知ることとなりました。

今回、見つかった資料によると、焼けてしまった阿弥陀堂はなんと「間瀬大工集団」が建築したお堂でした。

ここで「間瀬大工(まぜだいく)」という言葉を聞くのは初めての方もいらっしゃるかもしれませんので、少し説明しておきましょう。

まず「間瀬大工」の「間瀬」とは地名です(旧岩室村、現在は新潟市西蒲区)。場所は、私たちの住む長岡市寺泊の野積地区を海岸沿いにシーサイドラインを走るとすぐとなりの地区です。(ちなみに現在、我々は長岡市、となりの間瀬は新潟市で、ちょうど両地区が境界線となっています)。この間瀬地区で代々活躍した「大工集団」のことを言います。


特別に固有名詞で「間瀬大工」と呼ばれるにはそれなりの理由があります。この間瀬大工のルーツは古く京の都で、都のインフラ整備、造園などを担っていた一族です。なんらかの理由で北陸の能登半島へ渡り「宮大工集団」となったのですが、織田信長や豊臣秀吉の時代に「宗教戦争」で敗れ、能登から新潟の沿岸エリアに上陸して間瀬村を開拓し、現在の「間瀬集落」を形成したとされています。


間瀬で多くの弟子を取り、腕を磨いた「間瀬大工集団」は、耐雪設計や彫刻技術が評判を呼び、江戸時代から明治時代にかけて、新潟県内のみならず、福島県、長野県、北海道など全国各地を「出稼ぎ」でまわり、躍動感あふれる彫刻を施した寺社仏閣を建築しました。現在も間瀬には間瀬大工の子孫が暮らしておられるそうです。


その間瀬で、最近取り壊された元間瀬大工棟梁の子孫のお宅から、新しい間瀬大工に関する資料(日誌、設計図など)が発見されました。そのなかのひとつに「野積村西生寺本堂工事」と書かれた「日誌」が見つかったのでした。その資料を持って西生寺まで訪ねてくださった方(岩室郷土史愛好家)により判明されたのです。

その「日誌」は間瀬大工棟梁「赤川友八」の名が記されていましたので、この赤川友八さんが「阿弥陀堂」建築の親方となったと思われます。


日誌によると西生寺の「阿弥陀堂」は、明治26年(1893年)6月16日から工事が始まり、一年5ヶ月後の明治27年(1894年)11月29日に工事が完了したとあります(時代背景としてはこの間に「日清戦争」が勃発)。

そして完成からわずか34年後の昭和3年(1928年)に、残念ながら間瀬大工が建築した「阿弥陀堂」は火事で焼失してしまうのですね…。


実は私は日頃から、「棟札」もなく建設時期やたずさわった大工もはっきりとしていない「弘智法印即身仏霊堂」について、「どうも間瀬大工が造ったお堂っぽいんだよねー。」と、勝手に狡彰境爐靴討い燭里任垢、まさか「(焼失してしまった)阿弥陀堂」こそ、その間瀬大工が建築したものであったとは夢にも思いませんでした。


なぜ「弘智堂」をそう思っていたかと言いますと、ひとつは弘智堂の正面に施された精巧な「すかし彫り」(※龍、渦に千鳥、鳳凰、唐獅子、獏、牡丹など)の彫刻をみると、間瀬大工の作風にひじょうによく似ていると思うのと、ふたつめは「間瀬」は我々の「野積」のとなり集落ですし、県内外に広く遠征している間瀬大工が、となりの野積地区で仕事をすることは当然ありうると思ったからです。

村の大工さんも「この彫刻はとてもじゃないが、そんじょそこらの宮大工には彫れるシロモノではない。かなりの技術をもった特別な人が彫ったものではないか。」と言っています。ただ、弘智堂が建てられたと予想される時代(江戸時代後期)は、お堂を凝った彫刻で飾り、彩色をするのが流行っていたので、もしかしたら彫刻専門の「彫刻師」が彫ったとも考えられます。

(※新潟県の彫刻師で特に有名なのは、江戸末期〜明治初期に活躍した牘杆紊離潺吋薀鵐献Д蹲爐噺世錣譴討い襦∋鮎鮟仗箸痢崟仞遽青魁廚任后私も栃尾にあるお堂「秋葉三尺坊大権現」を見に行ったことがありますが、すばらしい!のひとことです。牾吻爐ちがうって感じ。)

しかし今回、弘智堂と間瀬大工をつなげるひとつの希望を見つけました。今回見せていただいた間瀬大工が手がけた別の神社の「設計図」を見ると、特に動物の犹盪劼半櫚爐良分が弘智堂のとそっくりだったことです。それと「間瀬大工」に詳しい岩室郷土史研究家の方も「たぶん弘智堂は間瀬大工ではないか。」とおっしゃっていました。ますます「間瀬大工が建築したのかも?」との思いを強くしたのでした。


高い技術力が必要とされる、ノミ一本で一本の木を彫ってゆく「すかし彫り」を得意とした間瀬大工集団、残念ながら今の阿弥陀堂にはその技術は使われていません。焼失してしまった今になって言うのもなんですが、現在までもし焼けずに残っていたならば、なかなかのお堂だったはずで、建立からわずか34年で焼失してしまった幻の「本堂」が本当に残念でなりません。


今回資料を持ってきてくださった方も、まさか爐堂が焼失していた爐箸六廚錣覆ったそうで、少し残念そうでしたが、「自分の目からみても、間瀬大工の建てたお堂に違いない。」という「弘智堂」を、なんとか間瀬大工と結びつけることができないか、発見された資料を読み解いたり、間瀬大工の建てた他の神社やお寺をまわったりと、今回の新資料発見で、チームを結成、精力的に活動をされているようです。

私たちも「間瀬大工の造った阿弥陀堂はもう無いのだから、現存する弘智堂に希望を託そう!」といった心境です。

※画像左…間瀬大工設計図より「獅子と象」
部分的にはとてもよく似ているのですが、設計図全体
を見ると、明らかに弘智堂の設計図ではありません。
どこかの「神社」のようです。

※画像右…弘智法印即身仏霊堂の「獅子と象」
弘智堂前面左右に彫られた「象と獅子」の彫刻。
間瀬大工の設計図のと良く似ていると思いませんか?
木材のしなりを利用した「耐雪設計」を得意とした間瀬大工
ですが、弘智堂も昔から「西生寺のお堂の中では、弘智堂が
一番地震に強いお堂だから弘智堂に避難すれば絶対安全。」
と言われてきました。


2010/06/21(月)
★ラット一番
たくさんの仏さまに囲まれながら、のんのんとした山寺の日々…と思っていたら…。

今、我が家ではちょっとした牴奇現象爐起こっています。ピークは過ぎたものの、それは今も続いています。

それはずばり爛優坤澂爐覆鵑任后

ネズミなんて街中に暮らしている方には無縁に近い動物でしょうが、お寺にとっては昔から切っても切れない関係が続いておりまして、これまでも爐笋辰燭蠅笋蕕譴燭雖爐離丱肇襪魴り広げている深い仲です。


だいたいネズミという奴は、非常にいやらしい食べ方をするのです。例えば内陣のお供え物のリンゴ。4つお供えしてあると、集中的に1個をガジガジと猖楜たい爐垢襪錣韻任呂覆、必ず4つ全部をちょこっとづつ爐弔泙濘い爐里茲Δ砲じるのです。結局かじったそこからリンゴは傷むので、4つ全部を取替えなければいけません。


今回のネズミたちの活動はこれまでにないくらい活発で、お堂内にとどまらず、我々の暮らす母屋の方にもネズミの気配(音)がばんばん感じられるほどで、ついに食堂や部屋でくつろぐ我々の前を「チョロQ」のようにすばやく走り去る姿まで目撃するにいたり爛優左好き放題爐澆燭い幣況になったので、我が家の定番「ねずみとりもち爛薀奪醗貳岫燹廚鮖迭櫃韻泙靴拭

我々の部屋にも初めて、何となく出そうなところにひとつ置いてみました。


それが見事に大当たり!

仕掛けた場所が、「越後ネズミ街道」もしくは「越後ネズミ銀座」みたいな、かなりの「ネズミ道」だったらしく牋貪戮烹寡き爐眥舛靴はなく、わずか一週間であっという間に8匹ものネズミを捕獲してしまいました。獲れるネズミの数が西生寺始まって以来の狡狂率・超ハイペース爐破萋笑いが止まらない状態です(その後も捕獲は続き、現在合計14匹)。


たとえ何の得にもならないネズミであっても、「仕掛ければ必ず獲れる」という充足感はすばらしく、人間が本来持っているはずの犲輓頂沖爐鬚澆瓦箸妨討啌个泙掘家族の間に「狩集団」としての妙な連帯感が生まれた我が家は、日々の生活がにわかに活気づいてきました。毎日取り替えるものだから、買いためておいた、ねずみとりもち「ラット一番」があっという間になくなってしまい、あわてて村にある商店に「ラット一番」をたくさん買いに走りました。


一匹いると背後に30匹はいるという、例の図式でいくと、現在ぐんぐん増え続けており、ただいま数百匹ものネズミが背後に潜んでいる図式になり、これでは減るどころか獲れば獲るほどネズミ算式に増えてしまうことになり「このまま続けて意味があるのか」と、私なんかは思いはじめているんですけどね。。。


ところが、これは序章に過ぎませんでした。ここからいよいよ牴奇現象第2ステージ爐任后

チューチー(ネズミ)の大量捕獲が続いていたある日、お坊さんの服装から普段着に着替えていた住職が「うぎゃっ!!」と声にもならないような悲鳴をあげたのです。おどろいた私が「どうしたの?」とふり向くと、夫は立ったまま固まっていました。夫の手には何かうす茶色の細い棒状のものをたくさんわしづかみにしています。


夫:「ジーンズのポケットにコレが入っていた…。なんだコレ?気持ち悪いー。」
私:「えっ?イモ虫?ちがう、かりんとうだ!!」

夫:「なんでオレのジーンズのポケットにかりんとうなんて入っているんだ?しかもこんなにいっぱい。」

私:「 誰かにもらったんじゃないの?」
夫:「なに言ってるんだ!食ったこともないぞ。それにそのままポッケに入れるはずないねっか。」

「あっ!」ふたり同時に声をあげました。
「ネズミ!!」

どうやらチューチー軍団が夫のジーンズのポケットを「物資集積所」にして、どっかから仕入れたかりんとうをせっせと運び込んでいたようなのです。

夫:「やめてくれよー。サイテーだー。オレのジーンズになんてことしてくれるんだよー。」
私:「これぞまさに正真正銘の爛優坤瀝∩爐世諭次笑っちゃう。」


我々は、固いジーンズのポケットを強固な洞窟にみたて恰好の物資集積所とした、チューチー軍団の物資輸送作戦を「カ号作戦」と名付けました(かりんとうの爛爐任后法


ところが、このネズミ軍団の「カ号作戦」は夫のジーンズのポケットだけではなかったという狄兄実爐忘廼甬い付きはじめたのです。


それは、思わぬ場所、例えば遠くはなれた「廊下の隅」に見覚えのあるうす茶色の細い例の物体が落ちていたり、クリーニングに出してしまっておいた「夏布団」のビニールを開るときポロリとこぼれ落ちたり、今朝も久しぶりに使おうと思って取り出した私の「革のバック」の中を明けてびっくり。すっかりおなじみとなってしまった"いつものかりんとう爐3本入っていました。


最大の謎はこのかりんとうの狃仆雖爐いまだ不明なことです。家族に聞いても、食べた覚えも見た覚えもないこの「かりんとう」、いったいどこから仕入れているのか、いくら探してもみつからないのです。たぶん一袋分きっちりキープしてあるとして、あとどれくらい運んだら「輸送作戦」は終了するのか、その前に「ラット一番」の力が勝るのか、まったく予断を許さない西生寺の「ネズミ最新事情」でした。。。


※画像左…「ラット一番」
観音開きになっているフタを開けると強力な粘着力のシートになっていて
(一度思い切り踏んでしまって靴下一足を駄目にしました)、中央に好き
な「エサ」を乗せて設置します。お母さんは「油揚げ」を使いますが、私たち
は基本に返り「米」を乗せています。

※画像右…庫裏に飾ってある手づくりの「ネズミの置き物」
さすがに本物のネズミを載せるのは気が引けましたので。
「米俵とねずみ」の組み合わせは定番です。「一二支」の一員でもある
ネズミは昔から「子宝」に恵まれ、子年は「豊作」になるといわれ、とても
縁起のよい動物とされています。また火事や地震などの「天変地異」に
とても敏感で、ネズミが出没する家は「火事がない」と言われています。
漁師の世界でも、ネズミが船にいると「船が沈没しない」と昔から縁起がら
れている動物です。この縁起にあやかると、ネズミ大量出没中の西生寺
は当分のあいだは牋詑戮続く爐箸いΔ海箸任靴腓Δ。。。


【追伸】6月26日(土)
事態進展です!例のかりんとうを、とうとう見つけました!台所の「台の下の奥地」を、床にへばりつくようにしてのぞき込んで見たところ、袋ごと落ちていました。どう見ても見覚えのある爐い弔發里りんとう爐任靴拭犇焦かりんとう爐任靴拭これは台の上にある、お茶菓子をまとめて山盛りに入れてあるダンボール箱に入っていたものに違いなく、たぶん山盛りすぎて箱から奥へ落下したものと思われます。袋の口は開いておらず、パッケージの下の方が食いちぎられていました。ちなみに残量は半分強でした。このかりんとうの処分とともに、ネズミ軍団の活動はめっきり弱まったようです(ホッ)。それにしても、黒ネコを飼っていたときはネズミのネの字もなかったのに、ネコが死んでからおよそ3年でこのありさまなのでした。。。


2010/06/08(火)
★弘智さまも食べていた?驚きの「大浦伝統野菜」











「切り株の輪切り?」

狡名錣離皀里茲蠅なり大きい爐箸亙垢い討い燭發里痢△い燭世い燭修離皀里鮟蕕瓩童たときのわたしの驚きの声です。

「ただ普通に大きい」を予想して軽い気持ちで袋を開けたのがうかつでした。 予想だにしなかった衝撃の姿形に
「すごーい、すごーい、なにコレ、空洞のある切り株だー!」と歓声をあげたのでした。

袋から取り出して丸ごとお皿に乗せてみると、なおさら「切り株の輪切り」に酷似しているその姿、生まれて初めて出会う「未知の食べ物」を前にすると、いつも喜びと感動で笑いが止まらなくなる私は、その皿を見つめながらしばらく笑いがとまりませんでした。立派な「厚切りステーキ」のようにも見える、この食べ物はいったい何だと思いますか?

実はこれは「牛蒡(ゴボウ)」なのです。

もちろんただのゴボウではありません。名前を「大浦ゴボウ」と言います。

実は前回のおてら通信でも紹介しましたが、先月、弘智法印即身仏の故郷「千葉県匝瑳(そうさ)市大浦」より、大勢のみなさまが当山を参拝していただいたのですが、この時、弘智さまのご実家の鈴木さんに「おみやげ」にいただいたものなのです。聞くと、鈴木さん自らが栽培されたとのこと。


門外不出、地元大浦地区でのみ、昔からひっそりと生産されてきたという「大浦ゴボウ」は、すでに調理済みの完成された「煮物」の状態で爐劼販慇擇蠅困牒爛僖奪されていました。それと一般にほとんど知られていない大変珍しい「大浦ゴボウ」の説明が書かれたモノも一緒にいただきました。(あとになってこれを読み、とても素人が簡単に調理できるモノではないと知ります)


まずはほとんど謎に包まれた「大浦ゴボウ」について、いただいた「説明書」をどうぞお読みください。

栽培歴の古さ、興味深い最初のきっかけ(発見)、歴史的な人物が食したとされる数々のいわれ、固いゴボウをやわらかくするための驚異の調理法、当山本派である真言宗智山派の大本山のひとつ千葉県成田市「成田山 新勝寺」との深い関係など、そのすべてが驚きに満ちています。


≪大浦牛蒡≫ ※「たべもの郷土史」中嶋清一著より

12月近くなると、そろそろ「大浦ゴボウ」の堀取りが始まる。大浦ゴボウの名は一般にはあまり馴染みがないが、千葉県八日市場市大浦地区(元匝瑳市大浦)のみに栽培されているゴボウで、直径15センチ、長さ1メートルもあるので、狷誕腑乾椒Ν爐量召覇叡亙周辺では知られている。

『西瑳群誌』によれば、大浦地区の鈴木四郎兵衛なるものが、ゴミ捨て場に大きなゴボウが生えているのを見つけ、種子をとってまき、研究改良の結果のものとあり、また、小野蘭山著『年草網目啓蒙(1820年)』に、大浦の名主伊兵衛なるものが、徳川将軍家へこの大浦ゴボウを献上し、将軍より「逸品なり」という賛辞を賜ったとある。

掘り出した大浦ゴボウは必ず泥付きのまま一定量、成田山新勝寺に納入する。大浦ゴボウと新勝寺との関係は古い。天慶2年(939年)、平将門が兵を挙げた翌年、藤原秀郷がそれを討たんと成田山新勝寺に選捷を祈願したとき、大浦ゴボウで祝宴を張り、その甲斐あって戦いに勝ち、再び大浦ゴボウで祝宴をもうけたところから「勝ゴボウ」という故事もある。

( ※天慶2年3月「平貞盛と藤原秀郷が、平将門を下総幸島で討ち取る」と私の年表本にも載っていました。ちなみに翌4月「平将門の首をさらす」とあり、その首がぴゅ〜んと丸の内(東京)に飛んで「首塚」となるわけですね。)

新勝寺はこの特大ゴボウを大釜で一日中煮たあと、約3時間油で揚げ、その後砂糖、醤油、みりん、酒などで味付けする。調理されたゴボウは、全国から参拝に来る信徒に精進料理として馳走する。新勝寺で食べてみたが、見た目はよくないが、肉質は柔らかで、しっとりとした味わいだったことを憶えている。

大浦ゴボウの栽培農家は9軒、その収穫量約1,500本という。いかにもユニークな「大浦ゴボウ」である。


どうです?なんだかとってもすごいゴボウでしょう。

私はこの巨大な、輪切り状に煮てあるゴボウを前に、「どうやって切ればいいのだろう…」「成田山のはどうカットされて盛り付けされているのだろう…」と、まったく想像もつかず包丁を持ったまましばらく考えこんでしまったのですが、結局無難に「サイコロステーキ風」に大きめにカットして食卓に出しました。


食事の時初めて「成田山で食べたことがある」という、長老や住職に「成田山スタイル」をたずねたところ、実は成田山では猯慇擇蠅里泙沺∪擇蕕困亡櫃瓦箸鮴垢衂佞韻討△觧爐鮹里蝓◆屬覆鵑搬臙世福」とまたまた驚いてしまいました。


そして特筆すべきは説明文にもあったように、見た目に反してその食感の柔らかさです。


噛むとほろっと崩れ、「どこにこんなにいっぱい隠れていたのだろう」というくらいに、ゴボウの身にたっぷりと煮含まれていた、昆布や干ししいたけの甘めの出汁が口のなかいっぱいにあふれます(高野豆腐の煮物みたいに)。特徴のあるあの爛乾椒Δ良味爐歪名錣離乾椒Δ茲蠅皀泪ぅ襯匹覆里膿べやすいです。


「これほどまでに柔らかくするにはどれほどの手間と時間をかけたのか、今度鈴木さんにたずねてみよう。」などと思いながら、初めて口にした記念すべき「大浦ゴボウ料理」をおいしくいただきました。「食べ物なのか?」と疑ってしまう見た目と、口に入れた時の柔らかさとジューシーさのギャップがたまらないですね。

現在は「成田山」以外にはほとんど市場に流通していない「大浦ゴボウ」を食べるチャンスはめったにありません。成田山では「大護摩」を申し込んだ方の「お斎(昼食)」に、この大浦ゴボウの煮物が付くそうです。味はかなり甘くしっかりと味付けがされていて「佃煮」とか「兜煮」みたいな感じだそうです。昔は「おみやげ用」にも販売されていましたが、O-157(食中毒)の関係で今は販売されていないそうで、門外不出の味となっているのだそうです。


千葉県匝瑳市大浦地区限定の「大浦ゴボウ」は、知られざる究極の「伝統野菜」といえるかもしれません。しかも江戸時代以降に栽培を始めた伝統野菜が多い中で、10世紀にはすでに生産されていたというのですから、栽培歴はかなり古いといえます。14世紀を生きた弘智法印即身仏も、地元大浦村の「蓮華寺」住職時代を含め、きっとこの大浦ゴボウの「ゴボウ料理」を幾度となく食したのではないかと思います。



※画像左…22センチの皿からはみ出そうな大きさ。
有名な「伝統京野菜」のひとつに「堀川ゴボウ」という、大浦ゴボウに
よく似た空洞のある大きなゴボウがあります。こちらの料理方法は、
空洞の部分にひき肉を詰めて煮る料理が一般的だそうです。
大きさは大浦ゴボウよりも小ぶりです。

※画像右…質感といい、色艶といい、まるでステーキ。
思わず、牛の形をした鉄板プレートに乗せてみたくなります。
     (そんなシャレたものは我が家にはありませんが。)
大浦ゴボウとの出会いを記念して 「巨大&長い!全国伝統野菜」
を調べてみました。

「加賀野菜」のひとつで一本が1キロもある石川県「加賀太きゅうり」、
長さが70センチ〜1メートルもあり掘り出すのが大変な山梨県の
「大塚にんじん」、「日本一長い漬物」で有名な細くて長いだいこん
岐阜県の「守口だいこん」(直径2〜3センチ、長さ1メートル20センチ)、
日本カボチャでは最大の福岡県「三毛門かぼちゃ」(一個4キロ)、
ひとつ10キロ〜20キロにもなる江戸時代より栽培されているご存知
鹿児島県「桜島だいこん」、煮物に最高の神奈川県「三浦だいこん」
(一本3キロ〜8キロ)などなど。

【伝統野菜】
特定の地域のみで伝統的に栽培されてきた野菜。最近「自分たちの地区で昔から栽培されてきた独自の野菜をもっとアピールしよう」という動きが各地でみられる一方、消費者側も一般的な野菜に比べ姿形がユニークで、生産量が少ないので市場に出回る機会が少なく、希少価値の高い野菜として人気急上昇中となっています。「伝統野菜の取り寄せ便」なども人気があるようです。新潟県では「長岡野菜」が有名で、かぐらなんばん(ピーマンのようにずんぐりむっくりしているトウガラシ)、真っ白のナス(通常のナスよりねっとりしてめちゃくちゃ甘い)とか、いくつか登録されています。


2010/05/25(火)
★弘智法印即身仏の故郷より「西生寺参拝団」来訪!











5月24日(月)、西生寺「弘智法印即身仏」のご実家である「鈴木家」当主の鈴木高次さんを筆頭に、総勢45名という大勢の皆さまが「西生寺参拝団」として当山にお参りをいただきました。弘智さまの故郷「千葉県匝瑳(そうさ)市大浦」より、遠路はるばる新潟まで「1泊2日の旅行」です。旅行のメインは「弘智法印即身仏御拝観」とのこと、そして弘智さまのご実家の方が引率する団参ということで、迎える側の我々も特別な思いを持って当日を迎えました。


しかし、「西生寺参拝団」をお迎えした日は、まるで梅雨の末期のような全国的に荒れた天候で、新潟も雨と強風が吹きつけるあいにくのお天気に…。長老さまがよく口にすることば「やんごとなき尊きことが起こるとき、天からの御湿りがある…。」まさにこの言葉どおりとなったのでした。


私の勝手な決めつけでしかありませんが、どうも犢庵劼気泙醗天候はつきもの爐里茲Δ糞いします。12年に一度の子年に行われる「御衣替えの儀式」の日も、必ず荒れた天気だし、その昔、長老さまが引率した「西生寺参拝団」が、初めて弘智さまが住職をしていたという、鈴木家と同じ大浦地区にある「蓮花寺」さまを参拝した時も、記憶に残る大荒れの嵐のような日だったそうです。

さて、ここで少し600年以上も西生寺に御安置されている日本最古の即身仏(ミイラ仏)、千葉県御出身の「弘智法印即身仏」についてお話したいと思います。


弘智さまは、鎌倉時代(西暦1290年代)に、千葉県八日市場市大浦村(現在の匝瑳市大浦)の農家「鈴木五郎左エ門」の次男「音松(おとまつ)」として生まれました。


音松は幼少のころ、同じ大浦村にある「蓮花寺(れんげじ)」というお寺に入信して僧となります。なぜ「出家」したのかは確定的なことは分かっていませんが、この頃よりすでにあらわれていた偉人の素質を父親が見抜き、父の心遣いで出家させたとも、蓮華寺の住職の目に止まったとも言われています。


寺に入った弘智さまは、得度をして名前が「音松」から「真諦(しんだい)」となりました。以後ずっと「真諦」を名乗っています。「弘智」となるのは、西生寺「奥の院」で即身仏と成るための修行を始めたころからです。


弘智さまは、50代初めで蓮花寺を去るまでの、相当の年月を蓮花寺の住職として勤めています。農家出身の次男坊の身にして一ケ寺の住職になることは、当時としては大変な出世だったといえるのだそうです。しかし弘智さまは、蓮花寺住職という地位を捨て、北海道から九州まで全国を訪ね歩き、民衆に仏教の教えを説く「仏教伝導の旅」に出られます。


およそ7年間にも及ぶ「仏教伝導の旅」を終えた弘智さまは、いよいよ「即身仏の実現」のため「入寂の地」を求めて最後の旅に出ます。そして弥彦山中にある西生寺の飛び地境内が気に入り、そこに修行小屋を立て3千日にも及ぶ厳しい「木喰行」を成満の末、1363年10月2日、座禅を組んだままのお姿でご入定され、即身仏となられたのです。
(※詳しくは当HP「弘智法印即身仏即身仏」のページを御覧ください。)


即身仏となられた弘智さまをご先祖に持つ、鈴木家にとっては今日は「ご先祖さまとの直接のご対面」の日でありました。600年以上もの長い年月を経てもなお、お墓やお仏壇などではなく、狎犬たままのお姿爐任汗菫弔気泙伐颪Δ海箸できるのというのは、考えてみれば非常に珍しいケースです。


鈴木さんにいろいろとお話をうかがってみることにしました。

まず始めに、
弘智さま幼少の「音松さん時代」の事など、「もしかしたら実家ならではの秘話があるかもしれない。」と思ってお聴きしました。


弘智さまについては、現在知られている以上にくわしい事は実家といえどもわからず、謎につつまれた部分が多いとのことでした。そんな中、昭和34年に文部省と早稲田大学、新潟大学合同の「即身仏学術調査チーム」が鈴木家に調査に入った時に、仏壇にある犢ずんだ古い位牌爐呂よそ700年前のとても古いものであると判ったそうで、「もしかしたら年代的にも弘智さまの御位牌かもしれない。」とのことでした。


さらに
「即身仏という霊験あらたかな行者さんになった、鈴木さんにとってはご先祖さまである弘智さまに直接ご対面するというのは、なにか特別な想いがありますか?」との私の質問に、

「ええ、あります。ただ、私が一番印象に残っている事としましてはですね…」
と前置きをしてこんな事をお話してくださいました。


鈴木家の仏壇には、弘智さまのかもしれない「古い位牌」の他にも、弘智さまが彫ったとされる「石像」がずっと昔からお祀りされているのだそうです。今から数十年前、鈴木さんが若かったころのある日、諏訪から「弘智法印即身仏信者さんご一行」が鈴木家を訪問し、その弘智さまの彫ったとされる石像をお参りすることになりました。


その石像は鈴木家にとっては昔から仏壇におさまっているモノので、「弘智さまが彫ったモノだ。」とは聞いていた鈴木さんですが、この時、仏壇をお参りした信者さんたちが、涙を流してその石像に手を合わせていた光景をまのあたりにして、強い衝撃を受けたそうです。


「自分たちにしてみれば、昔からふつうにお仏壇に安置してある石像に、ありがたいと涙を流して手を合わせる信者さんを見た時、即身仏となったこの方の偉大さ、弘智さまのすごさというもの、こんなにもご信心を集める霊験あらたかな行者さんを我が家はご先祖にもつのだなという事を、初めて認識したのがその時でした。」

「あの時の事は今でも一番忘れられない出来事でしたね。」とお話してくださいました。


さて、雨にも負けず、風にも負けず、元気いっぱいの参拝団の皆さんに、ほっと胸をなでおろした我々です。なかには「千葉なまり」の言葉を話す方もいて、私の千葉県出身の亡き祖父母のことが思い出され、まるでおじいちゃんやおばあちゃんと会話しているかのような、とてもなつかしい気持ちがあふれてきて、ちょっとウルウルしちゃいました。(タクシードライバーで運転が大好きだったおじいちゃんは、私が小さいころ、自慢の車で家まで迎えに来てくれて、富津市(大貫)の祖父母の家によく遊びに行きました。)


鈴木さんご夫妻をはじめ今回訪れてくださった「西生寺参拝の旅」の皆さま、本当にありがとうございました。これからもずっと、私たち若夫婦の代になっても、皆さまとあたたかい交流を深めてゆきたいと、そう強く願いながら西生寺を去るバスを見送った次第であります。


※画像左…住職(右)と鈴木高次さん(左)のツーショット
弘智さまが住職をしていた「蓮花寺」さまの檀家さんである鈴木さんは
現在、蓮花寺檀徒の世話人としてもご活躍中です。

※画像右…庫裏で住職の話を聞く「参拝団」の皆さん
「HP見ましたよ」とか、わざわざプリントして持参してきた方もいらして
うれしかったです。


2010/05/16(日)
★新緑の西生寺「境内ぶらぶら散歩」











植物がいっせいに芽吹き、さまざまな若葉の新緑に彩られている西生寺です。太陽の日差しが降りそそぎ、水々しくてフレッシュで色鮮やかな動植物の自然の息吹きに包まれる暮らしを満喫しています。太陽に見放され、生き物が呼吸を止めてしまったような「灰暗色の冬」を決して忘れてはいない私の心は今、大きな喜びに包まれ、心浮きたつ毎日を過ごしています。もったいないというか、贅沢というか、西生寺の四季のなかでも新緑の今が私の一番好きな季節です。

というわけで最近境内をぶらぶら散歩します。平日は拝観者も少ないので、狭い「受付寺務所」を抜け出して、どこを見ても「なんかいいなー」と思える境内を目的もなくさまよっています。今回の「おてら通信」は、そんな私の「境内ぶらぶら散歩」にお付き合いください。。


駐車場にある「受付寺務所」のドアを開けると、地面に降り立っていた最近よく目にする野鳥の「キビタキ」のオスが驚いて飛び立ちました。先日、寺務所の大きなガラス窓に激突してそのまま落下、気絶したと思っていたのにあっけなく死んでいたメスのキビタキを思い出します。「うぐいす」をさらに茶色く、地味に地味を重ねたようなくすんだ色のメスに対し、九官鳥を思わせるオスの派手さは「いったいなんなんだ。」という思いを抱きつつ、ひと気のない駐車場から「けやき」の原生林をぐるぐると見渡していると「これぞ新緑の極み、すばらしい!」と単純に感動。


新緑パワーでの「視力回復」を願いつつ、なんとなく「拝観順路 廚隆波弔諒へと進むと、3色の菊の造花と、かざぐるまで彩られた水子地蔵さまの「ひな壇」の壮観な眺めに思わず立ち止まり、水子さまのファッションが続々と初夏の服に替わっていることを知り、しばし観察。ついでそばの「フジ棚」のフジを見上げ、「どこぞのフジは満開とか言っていたけど、ウチのはまだまだだなー、房も毎年より小さい感じ。」などど思いながら、お不動さまの池のまわりのようやく咲き始めた「つつじ群」に注目。


「赤ばっかり満開じゃないの。赤が最初に咲くのは原始的だからなのかなー。チューリップも赤が一番だったもんね。」と、一日も早い「白とピンクのつつじの開花」を願いながら「拝観順路◆廚隆波弔料阿鯆未蝓◆峙凖臓廚函峺卜◆廚料阿砲△襦∨菁見事な紅葉を披露してくれる一本の「もみじ」に心を奪われ立ち止まりました。


秋の紅葉以外に注目したことなどなかった「もみじ」の新緑は紅葉に負けないくらいの美しさで、どこまでも淡い黄緑色をした、芽吹きたてのふさふさの若葉に「新緑のもみじもいいものなんだなー。知らなかった。」と、心ウキウキする私の足元の「苔(こけ)」でさえ、蛍光黄緑の鮮やかな新緑の最盛期を迎えているのでした。


向きを変えて「拝観順路」の石段を登ると、見えてくるのは「天然記念物樹齢800年の大銀杏」で、実は目的もなくぶらぶらしていたというのは厳密にはウソであり、本当はこの狢膓箘匹硫蠖瓩爐魍稜Г靴燭ったのが今日の散歩の最大の目的なのでした。


早春のころ、「拝観順路ぁ廚痢峭庵卷^即身仏霊堂」の前に立ち、冬枯れの大銀杏を見上げる山登りの人たちに「(鎌倉の大銀杏みたいに)この銀杏も枯れているっぽいよね、なんか危ないかんじ。」なーんて言われっぱなしだった西生寺の大銀杏の現在は、枝という枝を、まだ半分ほどしかない大きさの、かわいらしい新芽の葉が見事に覆っていました。「良かった。枯れてなんかいないのだ。見よ、新緑の葉で覆われた800年の大木の生命力を。」なーんてひとりでコーフン。


苔むすエリアにある「拝観順路ァ廚遼榮押岼ぬ鐶貌押廚愎覆狎仂の途中の、少し奥まったところには、大きな五輪塔の「阿刀家の墓」があります。墓の前の湿ったところに、数株の「ミズバショウ」があり、独特な形の白い花を咲かせているのを見つけました。

「これかぁ、この間、関西から来た団体のお客さまが大騒ぎしていたのは。爐海鵑覆箸海蹐縫潺坤丱轡腑Δ!爐箸言って、あの団体はたしか俳句の会だったっけ。ミズバショウがどれほど珍しいのかは知らないけど、はるかな尾瀬に行かなくてもここにもあるんだなー」としゃがみこんだ姿勢のまま、将来自分も入るであろう阿刀家の先代が眠るお墓にそっと手を合わせました。


「拝観順路」はト屬能りですが、阿弥陀堂裏側より道なりに少し下るとすぐ右側に「弥彦山登山・裏参道入口」の案内板が立っています。ここから「弥彦山」の山頂へと登山道が延びていることはもちろん知っていますが、「関心がない。」というのは恐ろしいもので、20年も弥彦山中に暮らしておきながら、山頂までの登山をいまだ一度も試みたことがありません。


「大丈夫、いつかその気になるはずだから。」そう自分に言い聞かせながらも、早くも「目」は案内板の逆サイドにある「竹林」の根元に向いていて、今晩の味噌汁の具を求め、絶対に生えているはずの「タケノコ」を探していました。


この一帯に点在する古い「野仏」の周りには、ここら辺では「にんじん草」と呼ばれている草木が早くも茂り始めていました。にんじん草は「生命力は野草のなかでは一番ではないか」と思わせる草木で、恐ろしいほどのスピードであっという間に一メートルほどに成長します。

「今は丸見えの野仏さまも、にんじん草で覆い尽くされて見えなくなるのは時間の問題だぞ。」などと思いながら、白くて細かい花を咲き誇っているにんじん草を少しだけ憎らしげに眺めながら、ゆっくりと坂道を下ると、なつかしの「受付寺務所」の前に出ました。「ただいまー」とドアを開けたところで今日のお散歩は爐しまい爐任后


※画像左…天然記念物「樹齢800年大銀杏」の今

※画像右…境内に咲く「ミズバショウ」


♪西生寺境内の構図がまったくつかめなかった方は
当HP「境内参拝Map」を御覧くださいませ。。。


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