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2010/12/19(日)
★旅話◆奈良吉野山金峯山寺「本尊御開帳」














いよいよご本尊さま、秘仏「金剛蔵王権現像」とのご対面です。照明に照らされて青くそびえ立つ、3体の並んだ大きな蔵王権現さまの迫力にまずは圧倒!逆立った髪の毛と吊りあがった白い眉、歯を剥き出しの怒りの形相、そんじょそこいらにはないくらいに全身で怒っている青い大権現さまに手を合わせ、思い切りご利益の「喝!」を入れていただきました。

それそれ表情が違っていますが、最大限マックスに怒っているのに、どの像も「地団駄を踏んでいる」ようにも見えどこか愛嬌があるのは(それが最大の魅力とも言えるのですが)、ぱんぱんした肉付きのよい頬(ほほ)と2重アゴ気味で首がなく、胴体に比べて大きな童子のような丸い顔だからでしょう。ぴくっと動きそうな超立体の「もりもりとした太い眉毛」が印象的でした(しぼり出して焼いたクッキーみたい)。


さらに「内陣」に入り像を真近に横から眺めると、片足を90度以上あげて爐じを切るお姿爐痢嵶体さ」が際立って見えて迫力満点。ついたても無く「どうやって倒れずに立っているのだろう…」と不思議でした(念力?)。

こんな奇異なお姿の大きな大きな蔵王権現像は、きっと世界広しといえど絶対にここ吉野山だけだと思いますし、しかも「ご本尊さま」というのですから衝撃すらおぼえます。

さらに一体でもかなり珍しいのに3体並んでご本尊!とはもうため息モノです。当山西生寺のご本尊さまの「阿弥陀如来」さまが、とっても上品な正統派のご本尊さまなので余計に「ご本尊さまがこんな仏さまなんてスゴすぎ!」というか、「日本の仏教恐るべし!」というか、とにかく夫婦してたまげまくりでした。

参拝を終えて寒さにふるえながら道を下ると「寺務所」があり、寺務所前には「山伏」の正装をした人々が集合していてとても華やかでした。こんなに大勢の山伏の恰好をした人たちを見たのは初めてでした。胸のボンボンと、毛皮の四角い「腰あて」がステキでした。

※画像左…御本尊「蔵王権現像」
3体のなかで一番大きな高さ7.3mもある中央の「釈迦如来像」です。
(堂内の撮影は一切禁止だったので、パンフレットからの画像です。)

※画像右…寺務所に集合する修験道の行者
ちょうど撮影をしていたカメラマンさんの位置に私も立って、同じカットで
撮影をしてみました。


2010/12/19(日)
★旅話:三重「伊勢神宮」詣











夫婦で訪れる19年ぶりの伊勢神宮(内宮)。結婚20周年の節目に夫婦そろって「お伊勢参り」ができたことにまずは感謝。平成の世になり20年以上が過ぎても「お伊勢参り」は健在でした。(19年前は秋篠宮さまのご成婚で伊勢神宮参りがちょっとしたブームでした)。

朝10時前にもかかわらず、神宮の入口「宇治橋」そばの駐車場は早くも満車、宇治橋を渡り伊勢神宮の境内へどんどん吸い込まれていく途切れることのない人の列に驚きと感動。

私:「初詣でもないのにすごい人。続々と来るよ。」
夫:「やっぱりお伊勢さまは別格だねー。神々しさが他とは違うよねー。」
夫:「境内に樹齢500年から1000年くらいの杉と楠(くすのき)がごろごろしているんだから。」

五十鈴川で手(心身)を清め、皇室の祖先とされる総氏神「天照大御神」がおまつりされている「御正宮」への石段をゆっくりと登り、緊張がピークに達する中(神社はなぜか緊張してしまう私)、神前式にお参りをしました。そして「お守り売り場」で庫裏の神棚にまつる「新年用の御札」を買い求めました。

私:「来年の神棚のお札はお伊勢さまのなんてちょっと豪華だね。うれしいな。」
私:「今決めた!20年後の結婚40周年にもまたふたりでお参りに来ようね。」

夫:「オレは無理だろう…」
私:「なに言ってるの!まだ71歳じゃない。がんばってもらわないと困るよー。」


※画像左…19年前にはなかった参道仲見世通り「おかげ横丁」
昔来た時は「赤福本店」だけが目立っていた記憶が…。すっかり様変わり
をして江戸時代の町並みが出現していてびっくり。ここでは「松阪木綿」の
藍の布をいろいろと買いました。見えづらいけど、画像に後ろ姿で、足の長
いグレーのわんこ(アフガン?)&スパッツ姿のお兄さんが散歩をしています。
異色を放ちまくりで周囲の目を相当に引いていました。

※画像右…やっぱり旨かった「伊勢うどん」
たまり醤油ベースのカツオ節のきいた濃いだしつゆに、小指ほどもあるもっちり
とやわらかい極太のうどん(右上の割り箸と比べるとその太さがわかるはず)。
画像は、ねぎとつゆとうどんをしっかりとかき混ぜ、あとは食べるだけとなった
状態の画像です。しょっぱそうで不思議としょっぱくない。伝説の味となって
いた「伊勢うどん」はやっぱり旨かった!
今回、老舗の「たまり醤油&味噌」の蔵元に立ち寄り、自家製「伊勢うどん
のつゆ」をボトルで大量購入。自宅に帰っていらい、お昼ごはんはやわらかめ
に湯がいた熱々のうどんに、この伊勢うどんのつゆをかけて「伊勢風うどん」を
毎日楽しんでいます(本当に毎日)。
いつでも自宅で伊勢うどんが食べられる安心感にも似た幸せ。。。


2010/12/08(水)
★「受付寺務所」冬期閉鎖、そうだ奈良へ行こう。
今年いっぱい開催されている奈良の「平城遷都1300年祭」の関連で、今年は奈良県内各地の寺社で「秘仏」や「秘宝」の特別開帳が行われていました。ふだんは一年に一日だけ「ご縁日」の日にしか御開帳をしない、山桜で有名な「吉野山」にある「金峯山寺(きんぷせんじ)」のご本尊さま、秘仏「金剛蔵王権現像(こんごうざおうごんげんぞう)」が、9月1日から12月9日まで「100日間特別開帳」が行われていることを知りました。

「東大寺大仏殿」に次ぐ、日本で2番目に大きい木造建築で、世界遺産にも指定された本堂「蔵王堂」が有名な「金峯山寺」は、「大峰山修験道」の根本道場です。7世紀末に「役行者(えんのぎょうじゃ)」が桜の木で「金剛蔵王大権現」を刻んで祀ったのが始まりといわれています。9年前に初めて訪れていらい、すっかり「蔵王堂」のワイルドな魅力にはまっている私たち夫婦です。

京都や奈良の市内にある雅なお寺とは趣(おもむき)がまったく異なる、どっしりとした構えの大きなお堂、自然のままの太い柱、山の尾根に立つ立地など、修験道場らしいワイルドさが魅力のとてもカッコ良いお寺です。周辺の吉野山の集落も独特で、寺社が集中する中心部メインの参道からちょっと上へ登り、せまい山の路に入ると、そこはまるで北タイやラオスの山岳高地にある集落そのもの。見晴らしのよい山の尾根に家や寺が点在する風光明媚なところです。

国内最大の「厨子」に安置された(はっきりいってこの厨子だけでも相当見応えがあります)、3体のご本尊「蔵王権現像」は高さが7メートルもある巨大な秘仏です。9年前の参拝ではお姿を拝見することができなかったことが、唯一の心残りでした。

写真などで知る限り、青い全身と定番の憤怒(ふんぬ)の形相の中にも、人懐っこさや愛嬌を感じるような顔立ちで、ビシッとポーズを決めているお姿は、一度も会ったこともないのに、すでに私の中ではかなりの親しみを抱いていて爐个辰舛蠻板垢合いそうな予感爐します。この3体の「蔵王権現像」は現在・過去・未来を現しているのだそうです。

「吉野山にまた行きたいなー。ご本尊の蔵王大権現さまもやっぱりこの目で拝見してみたいよねー。」

と時々思い出してはなつかしく話していた私たちには願ってもないチャンス。さっそく急きょ「吉野山行き」を決定。しかも12月8日(水)に、「受付寺務所」を冬期閉鎖のCLOSEDをした日の深夜に車で出発、「御閉帳最終日」の12月9日になんとか吉野山に滑り込むという強行軍です。

(毎日お寺で生活し、お寺が日常の我々。「お寺参り」は好きですが「また訪れたい。」と思う寺社仏閣はそう多くはありません。吉野山はそんな数少ない再訪したいと思う場所のひとつです。)

さて、吉野山で強く印象に残っているのは建造物だけではありません。夕方と朝6時から蔵王堂で始まる「お勤め」がこれまたすばらしかったのです。修験道の山伏のアイテムといえば「ほら貝」が欠かせませんが、修験道根本道場の金峯山寺(蔵王堂)のお勤めもやはり「ほら貝」を吹きまくります。(ほら貝が登場するお勤めはめずらしいです。)

観光客もいない静寂に包まれた奥深い山の朝、僧侶の読経の声と太鼓にあわせ、ほら貝の勇ましい音色が吉野山中に響きわたります。静寂を破る「ほら貝」の力強い音色と、荘厳な読経が吉野の大自然と自身の心にしみわたり、「お寺に嫁いだおかげで早起きが身について良かったなー。」と心から思いました。(旅行に出かけても当然早起きです)

「初めて訪れてから9年ぶり…」と、はっきりとわかるのはそれなりの理由があります。訪れた日は忘れもしない、2001年9月11日。蔵王堂など吉野山をお参りしてそばの宿に一泊しました。その日の夜は疲れていたので私たち夫婦は早めに就寝、翌日朝、部屋のテレビをつけてぼーぜん…。

「飛行機がビルに突っ込むハリウッド映画のワンシーンのような映像」がくり返し流れていて「なんなんだこれは一体!」と、しばらく何が起きたのか頭の中を整理するのに精一杯で、朝食もそっちのけでテレビに目がくぎ付けだったことを覚えています。心臓がばくばくして「世界がありえないような事態だてんね、のんきに旅行している場合じゃないっ。」って心境でした。そう「9.11米同時多発テロ」です。。。

というわけで、これより奈良吉野山へ蔵王権現さまに会いに行ってきます。「平城遷都1300年祭」のおかげでついに念願のご対面が果たせそうです。ついでなので2泊3日で予定を組んで久しぶりに「京都」と、グルメの宝庫「伊勢 志摩」にも行ってきます。(伊勢志摩は19年ぶりです。たった一杯食べただけの伊勢うどんが忘れられない伝説の味になっています)

※画像…最終日の「受付寺務所(左側)」と「宝物堂(右側)」
12月1日〜3月末まで冬期閉鎖された「弥彦山スカイライン」に合わせて、
駐車場の「拝観受付寺務所」を閉めます。「宝物堂」も春まで閉めますが、
「弘智法印即身仏御開帳」は毎日行っています。冬期間の「拝観受付」は、
庫裏の「納経所」で行っていますのでどうぞよろしく。
(※参拝時には積雪&凍結などの道路情報の確認をおすすめします。)

【おまけ話】
先日アウトドアの店で旅行用に「ナップザック」を新調。たまたま色が気に入って買ったザックは、私には全く無用な、取り外し可能の「シリコン製2リットルタンク」とダイビングのエアチューブのような「チューブ」が装備されていて、歩きながら水分をチューチュー補給できるというモノでした。レジで高野山大学卒業というめずらしい学歴の店長さんが「山伏の行者さんが修験道で、山伏の恰好にこのリュックを背負って、山中を駆けぬけながらチューチューしている映像を偶然テレビで見かけて、山伏もハイテクになったもんだな〜とびっくりした。」と言っていたのを今書いていて思い出しました。


2010/11/27(土)
★「野ガモ農法」と冬の味覚「野ガモ料理」











先日、何のまえぶれもなく「野生の真鴨(マガモ)の新鮮なお肉」をいただきました。その方は突然西生寺に現れ「ご住職さまはおられるかね?」と受付に訪ねてきたのですが、あいにく住職は法事で不在。その事を伝えると、困った顔になり「ほれ、コレ、渡してくんなせい。中を見れば分かるはずだから。」と新聞紙に包まれた物を私に差し出しました。

新聞紙に包まれた物を受け取ったとたん、見た目よりずっしりと重たくて「あっ!」と私はピンときました。

私:「もしかして前に住職が話していたのですけど、野ガモ農法をやってらっしゃるという方ですか?」
おじさん:「おう!そう!そう!知ってるかね?」

私:「ということはコレ、もしかして鴨肉ですか!野生の?」
おじさん:「おう!そう!そう!おめさんよく分かるねー。」

私:「野生のカモは超がつくくらい大好物なんですよ!ジビエですよね!うわぁすごいなー。」
おじさん:「そっかねー、よかったぁー!」(と言いながらバシバシと手をはったいて拍手喝采)

なんでも、前に法事の席(おとき)で住職と意気投合をして「カモ肉のおすそ分け」を約束していたとのこと。住職も当時夕ご飯の時に「今日の法事で、野ガモ農法で米を作っている人と知り合ったのだけど、その人は冬になると野ガモを食っちゃうんだって。」と話していたのを「なんてうらやましい話だ。」と忘れずに覚えていた私。

ところでその「野ガモ農法」ってご存知ですか?日中のあいだ「田んぼ」に野ガモを放ち自由に泳がせて、無農薬で米を作るめずらしい農法なんです。全国有数の米どころである新潟県は大小多数の稲作農家があるけれど、この「野ガモ農法」でお米を生産している農家はごくわずかです。

この方は「田植え」も機械を使わず昔ながらの「手植え」で行い、農薬を一切使わずに野ガモを泳がせることで、害虫となる虫や雑草を食べさせて「完全無農薬」で米の生産をしているそうです。「稲刈り」も手で行い、昔ながらの「はざがけ(はざ木と呼ばれる木に引っ掛けて干す、新潟独特の天日干しの方法)」をして極上の米を作るこだわりようです。

私:「野ガモ農法ってテレビとかで知ってましたけど、実際にされている方には初めてお会いしました。」
おじさん:「じゃ、写真がいちばん手っ取り早いね。ちょっと待ってみな。」

と言って車に戻り、野ガモ農法を行っている自分の田んぼの写真を何枚か持って来て見せてくれました。(ふだんから狎睫斥儉爐忙ち歩いているそうです。)

「カモさんお通り」みたいに、水田を10羽くらいのカモがお行儀よく縦に並んですいすい泳いでいるかわいらしい写真や、手植えの作業風景の写真です。一日田んぼを泳ぎ回り仕事を終えた野ガモたちは、ちゃんとお家へも一緒に帰るのだそうです。

その方と話をしながら、待ちきれずに「新聞紙の包み」を開けて中身を確認しちゃいました。

私:「これまるごと1羽分ですか?あ、これ砂肝だ、肝臓もあります?」
おじさん:「肝臓は食っちまったなー、へっ、へっ(笑)」

私:「このカモ肉ってもしかして野ガモ農法の…?」
おじさん:「いやいやー(笑)、飼っているカモとは違うですよ!」
おじさん:「11月に狩猟が解禁になったので、田んぼにうろちょろしている野生のマガモを網で獲ったですよ。」

私:「もしかして爐とり猟爐辰討笋弔任垢?」
おじさん:「おう!そう!そう!おめさんくわしいねー。」

※「おとり猟」とは「おとりの鴨」を使って、網に引っ掛けて獲るという方法で、新潟のカモ猟の主流です。おとりを使って網にかけて獲る新潟のカモは、肉にキズがつかないので肉質が保たれ、やわらかいので熟成させなくてもそのまま食べられます。

おじさん:「面白いように獲れるですよ。これも6羽獲れたうちの1羽で、みんなさばいて配ったですよ。」

私:「獲ったカモを、いつもどうやって食べるのですか?」
おじさん:「わたしら昔からカモ汁だね。しょうゆ味のね。味の濃さは好みだよ。」

この方のおすすめはやはり郷土料理ともいえる「カモ汁」で、カモ汁の出汁(だし)用にと骨を砕いたものが別に包んでありました。

しかし、私も住職も天然カモと言えば洋風の「ジビエ料理」が一番好き。ということで、脂身と柔らかい身を少しだけ使っておすすめの「カモ汁」を、あとはそれぞれの部位を塊のまま香ばしくローストした豪快な一品を作ることにしました。(ちなみに両方とも調理するのは夫の住職で、私は相変わらず味見係。)そうそう野生のカモは血のソースが定番ですが、こっちのカモは肉自体がおいしいので、ソースもほとんどいりません。

レストランで食べると一皿ウン千円もする天然マガモの「ジビエ料理」が住職の手にかかると画像のとおり、家庭料理とは思えない一皿があっという間に完成しました。「家ごはんでこんなジビエ料理が食べられるなんて夢みたいだねー。」

園子ママはカモは苦手なので、越後もち豚のソテー。お父さんには柔らかい胸肉の部分を。私と住職は骨付きのモモや手羽先、砂肝、胸肉など全部のせ。念仏のように「おいしいなぁー。」をブツブツとくり返し、真っ赤な半生肉や骨付きの肉をつぎつぎとたいらげていく猝鄒犬瞭食動物と化した嫁子(よめご)爐鯀阿法⊃事を終えた園子ママは席も立たず、物珍しそうにじろじろと観察。何がおかしいのかとっても楽しそうです。

園子ママ:「直子さん、すごいなー、野生人間なんとかみたい。本当に好きなのね、だから丈夫なんだわ。」
私:「もうウマすぎて…眠っていた野生が完全に目を覚ましちゃった感じ。」

もう一品の「カモ汁」は骨の出汁がすばらしく、カモ独特の香りが野性的。家畜のカモと違って天然ならではの上品な脂身がぷりっとしておいしかったです。

食べ終わってから園子ママに牾擇靴修Δ世辰人由爐鬚燭困佑燭箸海蹇■牽虻个砲發覆襪函峩腹で死にそうだ」ということもなくなり、食も細くなってすぐにおなかがいっぱいになるから爐發蠅發蠅犯味しそうにたくさん食べる若い人を眺めていること爐楽しいのだそうです。狄いしん坊で大食い爐覆海箸、初めて人の役に立ったような気がしました(笑)。


※画像左…「野ガモ料理」完成
「お寺って精進料理じゃないの?」「お寺で肉食の話もなんですなー」と思わ
れた方もいるかも知れませんが、西生寺では例えば「12年ぶりに御本尊さま
を開帳する日」、「即身仏の御衣替えの日」など神聖な儀式を行う時にのみ、
肉魚を絶ち「精進」します。ふだんは普通の家庭と同じです。
ただし食べ残しはゼロ。何日かけてでも作ったモノは最後まで必ず食べきります。
そしていただいたモノも、すべてありがたく頂戴します。
(以前、大きなダチョウの卵をもらいましたが、目玉焼きにして食べました。)

※画像右…今年の西生寺「紅葉ベストショット」
「芭蕉句碑」そばにある、毎年表情豊かな紅葉を見せてくれる「もみじ」と
「樹齢800年の大銀杏」の黄葉のコントラスト。


【新潟産の天然マガモ】
水田が広がる越後平野には冬の間、エサを求めたくさんの天然真鴨がやってくるので「野ガモ猟」が盛んです。地元では獲れた天然鴨まるごと1羽を使って「カモ鍋」や「カモ石焼き」を食べさせてくれる「野ガモ料理専門店」があります。越後平野にいる野ガモは米を食べているので肉の味もよく、生け捕りという方法も評価されて、東京の有名レストランからも多くの注文があるそうです。「国産カモ」のブランドとして年々知名度が上がりつづけている影響で、高級化して値段も上がり、地元新潟県内でもなかなかお目にかかれなくなりつつあるのは残念です。


2010/11/14(日)
★菊花−弥彦菊まつりと千鳥ヶ淵戦没者墓苑−












今年も境内の「雪囲い」の作業が始まりました。冬の日本海側特有の気候、いわゆる「冬型」の季節の到来です。これからは基本的にほぼ毎日、どんよりとした空と冷たい雨の天気となります。そして「冬型が強まる」と、ぐっと気温が下がり、ゴーゴーと音をたてて海から吹きつける強い風と、地鳴りのようにドドーンとひびく「雪おこし」のカミナリ、雨やみぞれの集中豪雨となります。こんな天気のくり返しですのでせっかく「もみじの紅葉」が美しい境内も、地面を見ると強風で落ちた葉や小枝が散乱していて気分はちっとも盛り上がりません。

「今のすごい雨でしたねえ、急に暗くなって。」
「晴れの日はないのね。」
「こっちはこれからは天気がころころと変わるんですよね。」
「さっきは晴れていたのにねえ。」
「忙しい天気だなあ。」
「こんなすごい風の音ははじめて聞いたなあ。いやいや」

これみな、「日本海側の冬型の気候」とは無縁な関東方面から訪れたお客さまの驚きの声です。関東の方からみれば、ネコの眼のように5分と持たずころころと変化する天気は「不愉快」というより「驚き」の方が強いようです。しかしこんな不安定な天気にも負けず、みなさん本当に元気に旅行をされているのです。エライなぁ。

というわけで今年も11月1日から「弥彦神社」境内で「日本三大菊まつり」で有名な「弥彦菊まつり(第50回新潟県菊花展覧会)」が始まりました。総理大臣賞などの「品評会」も兼ねている盛大な「菊まつり」を目当てに、この地域を訪れる旅行客が激増、休日を中心に弥彦神社は駐車場の確保もままならないくらいに大変賑わっています。今年の「菊まつり」は第50回ということで、毎回「国内の名所」を数万本の菊で表現するので有名な「大風景花壇」は地元「やひこの杜」です。

西生寺でも11月に入り、観光バスのグループ参拝がいっきに増えました。大変ありがたいことです。観光バスのだいたいのパターンとしては、弥彦温泉や岩室温泉などの「宿」を朝出発して、「弥彦神社」参拝と「菊まつり」鑑賞のあと、弥彦山スカイラインを通って約30分、海側の「西生寺」へお昼前に到着。もちろん西生寺では「弘智法印即身仏」を参拝します。

ちょうどお昼時となるあたりで、次に向うのは車で15分もしない場所にある「寺泊アメ横魚市場通り」です。「海鮮のお昼ごはん」と新鮮で安い「魚介類の買い物」や名物「浜焼き」などの買い食いを楽しんで帰路につくパターンです。(これ、西生寺をはさむコースとしては不動のゴールデンルートです)

秋の深まるこの時期、日本各地でも「菊まつり」が催されています。愛好家が出展する芸術品のような「鑑賞菊」の美しさは、日ごろ草花に関心の薄い私でさえ「うわぁ、きれいだなぁ。よく育てるなぁー。」なんて感心しきり。思えば「菊」は昔から日本人にとっては特別な花といえるでしょう。

天皇家の「菊の御紋」にはじまり、「お葬式」、追悼の「献花」、お仏壇&お墓にそなえる「仏花」。皿、手ぬぐいなどの伝統の菊花模様、新潟や山形では「もってのほか」「かきのもと」という「食用菊」があり、見るだけにとどまらず、花びらをおいしく食べてしまいます。「花の中で菊が一番好き。」という村のおばあちゃんの畑では数十種類の菊が次々に咲いています。

お寺は「仏花との戦い?」と思うくらい、ご本尊さまをはじめとする各仏さまにお供えするために一年中大量の仏花(生花)を必要とするのですが、「菊」は暑さ寒さにも強いし、丈夫で長持ちするので大変重宝する花です。

私にとって菊の花はやはり「慰霊の花」という思いが強いです。

ここ数年、私は必ず「秋の例大祭」に靖国神社をお参りします。(そういえば靖国神社でも「菊花展」が開催されていました)例大祭に合わせて、日本各地の「遺族会」などの団参の大型観光バスが靖国神社に続々とやって来ます。この期間、靖国神社は個人&団体と大勢の参拝者で賑わいます。

靖国を参拝した私はそのまま、桜の名所となっている千鳥ヶ淵のお堀の遊歩道を歩いて「靖国神社」と目と鼻の先にある「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」もお参りします。次々と大型バスで参拝者が乗りつけ、たいそうな人で賑わっている靖国神社とは対照的に、この「戦没者墓苑」はいつ来ても爐劼箸鵜爐なく、ひっそりと静寂な空気に包まれています。この日も例外ではなく狄佑短劼佞燭雖爐らいでした。

欅(ケヤキ)の大木が数本並んで立つのが印象的な敷地の奥に、六角屋根を持つ納骨堂の「六角堂」があります。六角堂の中心には大変目を引く巨大な陶器の「陶棺(とうかん)」が安置されています。この「陶棺(重さ5トン)」は、中部太平洋、ニューギニア、ソロモン諸島、フィリピン、ビルマ、中国、硫黄島などの主要戦域から収集した小石を材料に、1,700度の高熱で処理して造られたものです。陶棺の前には「献花台」があり、脇に献花用の白菊、黄菊が用意されており、一本200円を納めれば誰でも気軽に献花ができます。

一輪の「白菊」を選び献花台に捧げて手を合わせたあと、東京のど真ん中とは思えない別世界、静けさと厳か(おごそか)な雰囲気が漂う空間に身を置き、吹き抜ける風に亡き者の気配を感じながらぽつんとベンチに座っていると、いつもギモンに思うのは「靖国をお参りして、なぜすぐそばにある千鳥ヶ淵を人々はお参りをしないのだろう。」ということです。

「靖国神社」は戦死した英霊の魂が祀られた神社で、「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」は戦地から集められた遺骨を納めた場所です。「精神(魂)は靖国、肉体(遺骨)は千鳥ヶ淵」という戦没者は大勢おられるはずで、戦没者の立場に立って考えると「今の状態は異常」と思えるのですが、とにかく両方存在する以上は、「靖国と千鳥ヶ淵の両方をきちんとお参りして完結」のような気がするのは私だけでしょうか。

こんなことを考えていたら、ひとりの男性が現れ、つかつかと陶棺の前の献花台へ近づいてきました。参拝の人かと思ったのですがどうも違うようです。ベンチに座っている私には全く気が付いていないその男性は、やおら「献花台」に献花された菊の花を、ぱっ、ぱっと慣れた手つきで「白菊」「黄菊」の順番で抜き取り、200円を納める犖気両貊雖爐北瓩兄呂瓩泙靴拭

私がついさっき、200円を納め戦没者に捧げた白菊も、10分もしないうちに早くも犖気両貊雖爐北瓩辰討靴泙辰燭里任靴拭。。
「おじさん、、、せめて閉園した後にして欲しかったなあ。」と思いつつ、毎日用意されているのであろう、見事な一輪咲きの菊の花に、何気に思っていた「もしかして使い回してる?」のギモンが見事に晴れて、妙に気分がすっきりしたのでした。

「世の中そんなもんだよなー。」


※画像左…「弥彦菊まつり」ポスター
弥彦神社(通称:おやひこさま)のお膝元「弥彦温泉街」の統一イメージ
はこのポスターでも分かるとおり「大正ロマン」です。 菊まつりと同時に、
県内屈指の紅葉の名所「弥彦公園もみじ谷」のライトアップも行われて
います。「弥彦菊まつり」は11月24日(火)まで。


※画像右…千鳥ヶ淵戦没者墓苑「六角堂(納骨堂)」
この日は「秋季慰霊祭(毎年10月)」で供花されたものなのでしょう、
薄茶色の大きな「陶棺」の前(一般の献花台の前)には「秋篠宮」さまと
「管直人総理大臣」の名前で、菊をあしらった生花がお供えされていて、
六角堂をはみ出して両翼にずらーっと関係者の供花が並んでいました。
いつもよりかなり華やかな「六角堂」でした。

また敷地内(正門入りすぐ左側)には、今年の夏、新たに「ふたつの慰霊碑」
が並んで建立されました。全国の「シベリア強制抑留」の犠牲者(5万5千人)
の慰霊碑と、終戦後の「引揚げ」での犠牲者(ソ連軍侵攻による混乱と越冬
で10万人以上が犠牲となった満洲開拓団など)の慰霊碑です。


≪千鳥ヶ淵戦没者墓苑≫
大東亜戦争(支那事変含む)において海外で亡くなられた戦没者の遺骨を納めるため、昭和34年に国により建設された墓苑です。ここに納められている御遺骨(35万余柱)は、昭和28年以降、政府派遣団が収集したもの及び戦後海外から帰還した部隊や個人により持ち帰られたもので、軍人軍属のみならず、海外において犠牲となられた一般邦人も含まれており、いずれも遺族に引き渡すことのできないものです。

※いただいたパンフレットには「家族のため、国のため、静かに眠る、無名戦没者」と書いてあります。私はたびたび使われる、この「無名戦没者」とか「無名戦士」とかいう呼び方がどうも好きではありません。なぜなら「誰なのか」、身元が判明できないだけで、ここに眠る35万人の個人個人(または異国の地に今も眠り続ける200万人の個人個人)には「氏名」があり、無名なんて人はいないからです。


2010/11/03(水)
★即身仏のふるさと特産、幻の「大浦ゴボウ」が西生寺に!











10月29日(木)、千葉県匝瑳市(八日市場)出身の「弘智法印即身仏」のご実家「鈴木家」当主の鈴木高次さんが、「匝瑳地区保護司会」の研修旅行で4月の団参旅行に引き続き西生寺を訪問されました。鈴木さんはこの日、とてもビックな「おみやげ」を持って来ました。

そうです、あの千葉県匝瑳市大浦地区でのみ栽培されている、幻の巨大な伝統野菜「大浦ゴボウ」です!もちろん鈴木さんが育てた「大浦ゴボウ」です。メインの収穫時期の11月末を前に、大きく育ったゴボウをわざわざ掘って、はるばる千葉から持ってきてくれたのです。

私が始めてこの「大浦ゴボウ」と対面したのは、鈴木さんが4月にいらした時の「おみやげ」でいただだいた、鈴木家手づくりの「大浦ゴボウの煮物」でした。初めて見る「大浦ゴボウの煮物」を前にした私は、「切り株の輪切り?」とか「厚切りステーキみたい!」とか驚きの歓声をあげ、通常のゴボウを逸脱した「見た目と大きさ」と、それに反して「とてもジューシーでやわらかい事」にド肝を抜かれたわけですが、今回いただいたのは調理前の、掘りたての土のついたそのまんまの「大浦ゴボウ」です。

通常でも大根よりも太くて大きい「大浦ゴボウ」ですが、大浦地区の栽培農家には爍欧弔離織ぅ廰爐あると聞きました。「大きさよりも収穫量を重視する栽培農家」と、「収穫量よりも、一本の大きさにこだわる栽培農家」です。鈴木さんは後者のタイプで「とにかく種からこだわり、大きくて立派な大浦ゴボウを育てること」に情熱を燃やしています。

大浦ゴボウの栽培は「肥えた土地でなければならない」こと、そして他の作物同様に「雨」が必要ですが、雨を溜める土壌であると同時に「水はけ」もよくなければならないそうです。必要以上に根が水分を吸ってしまうと、ゴボウ内部の空洞部分に水がたまり、ゴボウが腐ってしまうからです。

鈴木さんによると「地下40センチくらいの位置に粘土層があるのがベストな土壌」なのだそうです。土中で大きく育ったゴボウの根がその粘土層を突き破り、必要以上に水を吸わないからだそうです。

7月に住職と初めて鈴木家と蓮花寺さまを訪問した時に「大浦ゴボウの畑」を見学させていただきました。普通のゴボウの葉っぱと変わらない緑の大きな葉を元気に広げた「大浦ゴボウ畑」でしたが、この時点での成長具合をたずねたら「そうねぇ、人間で言えば幼稚園くらいかな。」と非常にわかりやすい説明をしてくれました。その幼稚園児だったゴボウちゃんが3ヶ月を経て、いまやこんなに立派な成人となったんだなぁ。」と思うと感慨ひとしお。。

大きさにこだわるタイプの鈴木さんの畑は見学できなかったのですが、珍しいモノを見せていただきました。それは「種ゴボウの木」です。特に大きく育った優秀なゴボウを、収穫しないでそのまま「種」をとるために育てた「ゴボウの木」です。鈴木さんは優秀なDNAを持つこの「種」が、納得のいくよりビックな大浦ゴボウを育てるためにはとても大切で、種にも並々ならぬこだわりを持っている事を熱く語ってくれました。

となりで同じく大浦ゴボウを栽培する親戚の方が「この人の大きさにこだわるぶりは尋常じゃないからねー」と笑っていました。ちょうど花が咲いていて、私は生まれて初めてゴボウの花なるものを見ました。後でその「ビック遺伝子」を持った「こだわりの種」も見せてくれました(しかもひとにぎりの量を私にくれました)。

今年のゴボウの出来は上々だそうです。夏の猛暑と日照りで生育が心配されましたが、今回掘ったゴボウを見ると、「肌がつるつるときれいで思った以上の出来の良さ」だったそうです。まっすぐにしっかりと土中に伸びている大きなゴボウを掘り出す作業はとても大変なのだそうですが、収穫まであと1ヶ月の間にまだまだゴボウは生長するそうです。

大浦ゴボウは昔から「勝ゴボウ」と呼ばれ縁起が良く、またその美味しさが知られており、代々の徳川将軍家や、皇室などに献上されてきましたが、江戸時代よりももっと昔から現在まで途絶えることなく、毎年12月初旬に出荷を続けているのが同じ千葉県にある「成田山新勝寺」です。

現在では狎田山に卸すために生産されている野菜爐箸い辰討皺畍世任呂覆いらいに、成田山が「最優先」なのだそうで、11月末に収穫をした大浦ゴボウは「大きさ・太さ・品質」など、厳しい規定をクリアした1,600本を、まずは12月1日に成田山に納入します。あとの残った分、そう多くはない量の大浦ゴボウは、その後初めて数日間だけ(わずか2−3日くらい)地元で販売されます。

気になる大浦ゴボウの値段は一本2,000円〜3,000円だそうで、毎年その販売を楽しみに待っている人々の間(個人や料理屋さん)で、あっという間に売り切れてしまうのだそうです(だから幻の野菜と言われているのです)。最近は鈴木さんたちのような熱心なの大浦ゴボウ栽培農家の努力の末、収穫量も少しずつ増えてきているそうです。「伝統野菜を見直そう」などの世間の風潮もあり、知名度も広がりつつあるそうです。

一般にわれわれが「大浦ゴボウ料理」を口にできる機会としては、これらの事情により通常は「成田山で大護摩の御祈祷を申し込み、御祈祷のあとに提供される精進料理のお膳」に限定されるといえます。

手間のかかる「下ごしらえ」から切り株のような「厚切りの煮物」完成までの「調理全般」を行っている成田山としては、「当山でしか味わえない名物大浦ゴボウ」という付加価値をアピールしたいようで「あまり手広く販売ができないんです。」という事もちらっと聞いたような気がしますがどうなのでしょう。

というわけで、とってもとっても手間のかかる「下ごしらえ」や「調理」を確実に行うため、鈴木さんのアドバイスにより、このたびいただいた2本の大浦ゴボウは、しばらく「土中に埋める」ことにしました。私の職場であり、一日を過ごす「受付寺務所」が12月初旬に「冬期閉鎖」された後、母屋でかかりきりで作業をするためです。雪の深くなる前の年内に掘り返し、やわらかくて美味しい「大浦ゴボウの煮物」に挑戦したいと思います。

というわけでお昼前に、種一粒すら植えたことのない我々夫婦が、無い智恵をしぼって選んだ無農薬の場所にさっそく「穴掘り」を開始。

住職(掘りながら):「こんな土地でいいのかな?石ばっかりだぞ。」
私(見てるだけ):「ざっく、ざっく♪」

住職(ゴボウに土をかぶぜ):「こんな埋め方で本当に大丈夫なのか?」
私(見てるだけ):「ざっく、ざっく♪」

掘った穴にゴボウを横に並べ、茎までまるごと全部土に埋めたのが正しかったのかさえよくわからないまま終了しました。

私:「また掘り出すなんてタイムカプセルみたいだねー♪」
   「そうだ!正月のおせち料理の一品に大浦ゴボウの煮物を加えるというのはどう?」
夫:「いいけどさ、本当にこれでいいのかなー?」


土に埋めた大浦ゴボウは2ヶ月は大丈夫とのことですが、「あんまり長いと芽が出てきますよ。」と鈴木さんに言われ、なぜか爛疋ッ爐箸靴浸笋任靴燭(笑)、とにかく貴重な大浦ゴボウは収まるべきところにきちんと収まったのでした(たぶん)。

こんな狹擇い犬蠢膿有爐發呂覆呂世靴せ笋燭舛覆里任垢爐劼般醂瓢纏爐鮟えた満足感からか、この後「家で何か作物を育てるなら何がいいかなー?」という、いままで全く触れたことのなかった話題になり、「パクチー(香草)!」と即答一致しました。

※画像左…大浦ゴボウの「花」
私の背丈ほどもある、種を取るための「ゴボウの木」には白いアザミ
みたいな花がたくさん咲いていました。
「種」は小さく、こげ茶色の籾(もみ)がついた細長い形をしています。

※画像右…いただいた「大浦ゴボウ」
土に覆われているので一見すると「ゴボウも茶色?」と思いますが、
ゴボウ本体は真っ白です。


2010/10/24(日)
★弘知法印御伝記「あらすじ」と作者「孫四郎」の謎











10月30日(土)、31日(日)に行われる、人形浄瑠璃「越後猿八座」による念願の「東京公演」もいよいよ間近にせまってきました。すでにチケットは「前売り」の段階で両日ともに完売したとのことです。

今回は「弘知法印御伝記」の作者であり、江戸初期の日本橋にあった「浄瑠璃一座」の座長でもあった「孫四郎さん」に注目してみたいと思います。と言っても、孫四郎さんという人物についての記録はまったくといってよいほど残されていないのです。そんな状況の中で、最大の疑問であるのが、

「いったいなぜ江戸の孫四郎さんが、越後の弘智法印即身仏を題材にしたのか?」

ではないでしょうか。コレ、私が一番最初に「興味と疑問」を抱いた部分なのですが、さすがに大英博物館で「御伝記」を発見された鳥越先生も、越後角太夫さんも「孫四郎についてはまったくわからない。」とおっしゃられています。しかし狷罩爐罎┣餌はたのしく無限に広がります。

「江戸に暮らしていたが、越後の人間だったのではないか。」
「柏崎や、弥彦という地名が出てくるあたり、その可能性は高いでしょう。」

「孫四郎はとても詳しく弘智法印即身仏の背景を知っている気がします。西生寺にゆかりの深い人物かもしれない。」

「あるいは弘智法印即身仏の江戸の出開帳で、知ったのかもしれない。」

「出開帳の時に、弘智さまのこと、いろいろと情報を仕入れたのでは?」
「情報の伝達方法もスローだったにも関わらず、この時代の情報の広まり方はすごいですからね。」

結局のところ、このように「孫四郎さんに関する事」は謎のままです。「もしかしたら即身仏の出開帳の時期を詳しく調べると、江戸初期の孫四郎さんとのつながりが何かつかめるかもしれませんね(越後角太夫さん談)。」とのことでした。

というわけで、その孫四郎さんの書いた『弘知法印御伝記』の「あらすじ」を「段」ごとに簡単にご紹介したいと思います。

『越後国柏崎 弘知法印御伝記』−あらすじ−

●初段

越後国、弥彦山麓に裕福な長者が暮らしていた。妻には先立たれたが、息子夫婦には三歳の男子がいて、嫁は二人目の子を身ごもっている。何不自由ない暮らしではあったが、息子「弘友(ひろとも)※主人公、後の弘知法印)」の遊興好きが、父「秋弘(あきひろ)」の悩みの種であった。今日も柏崎の遊郭に出かけた息子を戒める為、父も遊郭に向う。

●二段

父が戒めに来ることを知った息子「弘友」は「馬子(遊女)」と衣装を取り替えるが、父に見破られ勘当される。成り行きを案じて表に出た妻の「柳の前(やなぎのまえ)」は、夫「弘友」の衣装を着た馬上の遊女「馬子」を夫と見て、すがり寄る。驚いた馬子は柳の前を切り払って逃げ去り、柳の前は夫を恨みながら落命するが、身ごもっていた子は生まれ出る。その場に行き当たった夫の弘友は己の愚行を悔み、妻を埋葬し、長男の「千代若」を実家の門前に届けるが、置き去りにした「生まれたての子供」はオオカミが咥(くわ)えて去ってゆく。

●三段

「弘友」は出家しようと高野山を目指す。上越の五知国分寺に籠もった夜、幽霊となった妻「柳の前」に再会する。また、居合わせた弘法大師の弟子となり、「弘知(こうち)」の名を授かる。高野山への道中、美しい娘に化けた魔王が修行を邪魔しようとするが、振り切って高野山の閉じこもる。

●四段

家が傾き、耕作をして孫の「千代若」と暮らす祖父「秋弘」は、孫を驚かせた蛇を殺そうとしたはずみで落命する。高野山での7年を経て、「弘知法印」は修行がてら故郷の越後を訪れるが、この場に行き会い、父子の名乗りはせぬまま、孤児となった「千代若」に「弘嗣(こうじ)」の名を授けて出家させ弟子にする。

●五段

弘知法印は高野山への道中で足を痛めた「弘嗣」を馬に乗せるが、仔馬に乳を飲ませるために休ませた馬の親子が突然死ぬ。弘知法印が経を唱えると、馬の死骸が割れて、弘知法印の両親が現れ犢庵遼^が観音大師の生まれ変わりで、やがて即身仏となること爐鮃陲押天に昇ってゆく。

●六段

かつて生まれたばかりの次男を咥えて去ったオオカミは、実は「弥彦権現」の化身であった。今度は女性の姿となり、7歳になった次男「千代松」を連れて弘知法印たちの前に現れる。妻「柳の前」の七回忌の命日に、弘知法印と二人の息子は再会を果たし、揃って墓参りをすると、二十五菩薩が来迎し、墓から現れた妻「柳の前」は紫雲に乗って成仏する。

弘知法印は、次男「千代松」に家督を継いで即身仏を安置する御堂を建てること、長男「弘嗣」は御堂の従持となるよう言い残すと、弘知法印は即身仏となって往生する。やがて都から勅使が来て、「弘嗣」を権大僧都に、「千代松」を越後国主する宣旨が下され、遺言通りに即身仏を安置する御堂が建つ。



いかがでしたか?全六段からなる力作「弘知法印御伝記」ですが「一段およそ30分」の上演時間なので、なんと全段を上演すると爍鎧間!爐箸いΑ現代の文楽や古浄瑠璃の上演ではあまり例のない(と言うよりも皆無に近い)、「大作」となっています。「上演」では途中に休憩をはさむ「2部構成」となっています。

当時江戸では「弘知法印御伝記」のような「説教浄瑠璃」は大衆娯楽として一般庶民にとても親しまれていました。人々は一日を費やして「人形浄瑠璃」を観賞して、泣いたり笑ったり、呑んだり食べたりしながら日頃の苦労を忘れ、心ゆくまで楽しんだのだそうです。

そして「弘知法印御伝記」を上演した「浄瑠璃一座」のあった「日本橋」は、このような「一座」の集まる一大拠点となっていて、通りの両側に「芝居小屋」がびっしりと軒を連ね、各地から大勢のお客さんが集まるとても賑やかな界隈だったそうです。老舗が点在する現在の落ち着いた雰囲気の日本橋からはちょっと想像がつかず、意外な感じがします。現在の日本橋の街には当時を知ることができる形跡は残念ながら何も残っていないそうです。



※画像…発見された「弘知法印即御伝記」原本のコピー
「弘知法印御伝記」は人形浄瑠璃のお芝居以外でも、このように
本が刊行されましたので「読み物」としても楽しめました。
ところどころに「挿絵」が入っているので、ヘビのはうような文字でまったく読めな
い私でも、なんとなく「あ、あのシーンね」と察しがつきます。
ちなみに、にょろにょろとした文字は「ひらがな」です。(庶民でも読めるように)


2010/10/13(水)
★地産地消 西生寺の「秋の味覚」











夕方、受付寺務所を閉めて母屋に戻りそのまま台所に入ると、裏の勝手口に「青いバケツ」にどーんと山盛りに入った「キノコ」が置いてありました。
「今年も穫れたのか…。」
このキノコ、もちろん食べられるキノコです。


西生寺で正真正銘の「地産地消」をしている食べ物は3つあります。春の「たけのこ」、9月の「みょうが」、そして今の時期に穫れるこのキノコ、通称「ナラゴケ」です。境内のどこかに密集して生えているキノコのようで、一度の収穫でバケツ一杯山盛りが獲れます。

「境内のどこかに生えているようだ。」なんてあいまいな表現になるのは、実は我々西生寺の家族は「その場所」をだれひとり知らないからです。長年、西生寺に務めている村のおばあちゃんが、時期になるといつも仕事中に爐匹海らか牾佑辰討るのです。そして爛ノコ獲り名人爐砲呂弔ものの「たとえ身内であっても、他人にその場所を決して教えない。」という教義?にのっとってか、我々西生寺の家族にすら生えている場所を教えてくれません。


そのようにして境内の秘密の場所から収穫された「ナラゴケ」ですが、おいしく食べるためにはきれいに「そうじ」をしなくてはなりません。やわらかいキノコの笠(かさ)を壊さないように、葉っぱや土にまみれたキノコをひとつひとつていねいに汚れを落とし、新聞紙の上に並べたのが画像左の写真です。時間と根気を要するけっこうな仕事です。さらに「軸(じく)」を落とし、塩水に4時間ほどつけて、油揚げを入れた「キノコ汁」にして食べるのが西生寺の定番です。


初収穫の時は「味噌汁♪、味噌汁♪」とたのしい気分でキノコを「そうじ」しますが、これが2回目、3回目の収穫となると、まるで違う気分になり、「お願いだからもう獲らないで…」と泣き顔になりながらキノコをそうじします。夕方、台所の勝手口に「青いバケツ」が置いてあるかないかが大変重要な問題となるのです。


似たような「大量根気パターン」としてはこの時期だと食用菊の「かきのもと(※花弁をむしる作業)」、春は「かす煮」や「からしあえ」がおいしい「菜の花(※数回に分けて大鍋で湯がく作業)」、夏は地元の浜で獲れる海草「じばさ」や「あおさのり(※どちらも何度洗っても砂が取れない)」などが該当します。いずれも、夕方母屋に戻るとなんの前ぶれもなくドカンと台所に山盛りに置かれており、食事作り担当の私に猝妓世琉砧廊爐鬚けてきます。


「気が付かなかったことにしよう。」と圧力を無視するわけにもゆかず、結婚したてのころなんかは、都会ではありえない量と、あまりにナチュラルな素材の状態に驚き、「田舎に嫁いだ嫁に与えられた試練か?」なんてよく思ったものです。


村のおばあちゃん達のあいだで交わされる話題で「オラっちの畑で育てたほうれん草はなんにも食わずに、嫁はわざわざスーパーでほうれん草を買ってくる。」なんて話がありますが、これは海岸の野積地区特有の「砂地の畑」で獲れる、砂まみれの野菜を手間をかけて下処理するのが大変なので、お嫁さんは砂土のないきれいな野菜をスーパーで買って来るというはなしです。

「オラが作った田舎料理には(同居している)若いもんはまったく箸をつけない。」なんて話も定番で、この時おばあさんの話していた「若いもんが箸をつけない料理とはなにか?」と思ったら、発酵した自家製「いわしの塩漬け」と「酒かす」ときざんだ白菜、だいこんおろしがたっぷりと入り、塩漬けいわしと酒かすのダブルの発酵臭に加え、見た目が白くどろどろとした野積の郷土料理「しおから汁」のことでした。(私は大好物ですけど、村のお嫁さんのあいだでは確かに評判悪いです)


さて、手間ひまかけて出来上がった今年初めての「ナラゴケ汁」はやっぱりおいしかったです。適度にヌメリのある汁は、キノコの出汁がよく出ていて、境内にてきとーに生えているわりにはちゃんと野生のキノコ特有の香りもします。園子ママがキノコ獲りに山に入らなくなって久しい今、ナラゴケとはいえバカにはできない唯一の「野生キノコ料理」なのでした。


このように、自分たちの暮らす敷地内に生えている食用キノコを食べるのはいたって自然なことですが猊瀉脇發里匹海棒犬┐討い襪里ナゾのまま食す爐里蓮∨菘戮里海箸覆らどうも釈然としない感じがします。

「ヒマな時に一度、境内中を探してみようかな。こんなに大量に密集して生えているのなら、素人の私にだって絶対に見つけられるはずだもの。」と、いつもバケツ山盛りのナラゴケをいじくりながら「今年こそ!」と思うのですが、時期が過ぎるとけろっと忘れてしまいます。

こっそりと秘密の場所を探し出し、キノコの場所を知りつつも知らないふりをする、というのがひねくれ者の私の夢なのですが…

(※ちなみに、このナラゴケを獲ってくるおばあちゃんは自分では一切ナラゴケは食べません。そしてこの方のだんなさまは「サマツ茸獲り」の名人で、弥彦山かどこかで獲った太くて大きなサマツ茸を、毎年西生寺にもおすそ分けしてくれるのですが、やはり山に入る時は爐劼箸雖爐世修Δ如奥さんにさえ場所を教えないらしいです。)


※画像左…今年初収穫のナラゴケ
バケツ山盛りのキノコを「そうじ」してひとつひとつ並べた結果、
どこまでも続く「キノコの越後平野」のようになりました。

※画像右…ナラゴケたっぷりのキノコ汁
使用した油揚げは「栃尾のジャンボ油揚げ」です。


2010/10/01(金)
★やったね!越後猿八座「越後國柏崎・弘知法印御伝記」













「暑い、暑い」と大騒ぎしていたら9月23日の「お彼岸中日」を境に激変。一気に気温が下がり、「ちょっと待って、うそでしょ」と戸惑いを隠せないままに、さわやかといえばさわやかな秋の訪れです。「寒さ」に弱い私は「いっこう陰りを見せないこの暑さ、12月くらいまでは続くかも?」と密かに期待していたのに、ちょっとがっかりです。

10月2日は「弘智法印即身仏」の入滅された日です(1363年10月2日)。この日は毎年「弘智講(弘智さまのお祭り)」が行われます。20年ちょっと前までは前日から泊まりで「講」を行っていたそうですが、現在は当日のみの日帰りです。午前10時くらいから大勢の檀信徒の方が集まり、「法話」に「お斎(昼食)」に「法要」に「演芸」に「即身仏拝観」にと、フルコースで夕方まで催しが続き、西生寺は一日中賑わいます。

というわけで、弘智さまのお話です。といっても今回は、弘智法印即身仏をモデルにした江戸時代の幻の「人形浄瑠璃」、そう、昨年夏に300年ぶりとなる「復活上演」を見事に成功させた「越後猿八座」が演じる「越後国・柏崎 弘知法印御伝記」のお話です。

この「弘知法印御伝記」に関係する爐Δ譴靴ぅ縫紂璽広爐ありますのでさっそくご紹介したいと思います。

ひとつは「弘知法印御伝記復活上演」のきっかけをつくり、現在も温かく「越後猿八座」の活動を見守っておられるコロンビア大学名誉教授「ドナルド・キーンさん(88歳)」が、このたび新潟市の「第5回安吾賞」を受賞しました。この賞は、新潟市出身の作家「坂口安吾」にちなみ、反骨精神や挑戦する姿勢を持ち続ける人に贈られる賞です(ちなみに昨年受賞されたのは新潟県出身の俳優「渡辺謙」さんです)。

選ばれた理由としては、ドナルド・キーンさんが「敗戦国日本」の文化に着目(キーンさんは第2次世界大戦時、海軍の兵士で、アッツ島戦や沖縄戦などに参戦し、終戦まで日本軍関連の文書の翻訳や、日本軍捕虜の通訳などをしていました)、価値を再発見して長年にわたり「日本文学」を研究し、広く世界に発信していった事が「坂口安吾に通じる挑戦的な生き様がある」と評価された、と新聞に載っていました。

加えて新潟県ゆかりの「越後国・弘知法印御伝記」復活にも大きく関わったという点も、きっと評価のひとつに入っているはず、と私は思っています。ドナルド・キーンさんは、昨年の柏崎市での「復活上演」を縁に、「弘知法印御伝記浄瑠璃本」を47年前に偶然イギリスの「大英博物館」で発見された、早稲田大学名誉教授「鳥越文蔵」さんとともに、柏崎で「講演会」を行うなど、すでに新潟とのかかわりを持つ方ですが、今回の受賞をきっかけに、ドナルド・キーンさんのファンのひとりとしても、私の第2の故郷となって久しい「新潟」や、越後猿八座「弘知法印御伝記」をさらに身近に感じていただけたらうれしいです。


もうひとつは、すでに「当HPトップ」でもご案内していますが、ついに「越後猿八座」念願の「東京上演」が決定したことです(10月30日(土)と31日(日)の2日間)。

「東京」といえばかつての「江戸」、江戸時代初期に「弘智法印御伝記」は江戸の日本橋で上演されていましたので「東京上演」はいわば「凱旋復活上演」とも言えるのです。「越後猿八座」にとって「東京上演」は特別な思い入れがあるのです。と同時にメンバーの心には「新潟を飛び出して日本の中心、東京で演じてみたい。」という強い願いもあったと推測されます。

実は、昨年7月に新潟市の「新潟県民開館」での2日間の公演を終えた後、越後猿八座代表の越後角太夫さんから電話をいただいた時に「次の目標は来年、東京公演です!今いろいろと当っているところなんです。」とうかがっていたのですが、世の中はリーマンショック以降不況の嵐で、「協賛をしていただける企業団体がなかなか集まらなくて…。」ともおっしゃられていました。

時々家族の間で「越後猿八座の東京公演の話はどうなっているのかなぁ。進展しているのだろうか?」と気にかけていましたので、「角太夫さんついにやりましたねっ!」という心境です。本当におめでとうございます。

越後角太夫さんは電話で私にこうもおっしゃっいました。

「越後猿八座はこれからもずっと、弘知法印御伝記ひとすじにやっていきます。」
「もっともっと稽古を積んでもっともっと上手くなりたいし、まだまだはじまったばかりですよ。」

まったくの素人でゼロからスタートをした「越後猿八座」の座員のみなさんの、一座立ち上げの時から続く「人形浄瑠璃」に対する姿勢、情熱と努力にはほんとうに脱帽します。

10月30日(土)、31日(日)の「東京公演」がいまから待ち遠しいです(西生寺からは長老と園子ママが見に行きます。私と住職は残念ながら猯閏虍岫爐嚢圓韻覆い韻譴鼻∋笋亮族箸領梢討鮠径圓靴泙靴拭法

奇蹟的に世に出た「弘知法印御伝記」が、現代によみがえった「平成の一座」により、300年ぶりにかつての「江戸の一座」の本拠地で猊活上演爐鬚垢襪覆鵑董何度考えてもわくわくします。江戸時代当時「弘知法印御伝記」の浄瑠璃本を書き、一座の座長でもあった「孫四郎」さんは、さぞかしあの世でびっくりされていることでしょう。


※画像左…10月の「東京公演」のポスター
もうひとつニュースがありました。東京のテレビ局がいま「越後猿八座」のドキュメン
タリー番組を制作中です。「東京公演」を中心にした「越後猿八座」のこれまで
の軌跡の番組だそうです。西生寺にも来月初旬に、撮影の取材が入っています。
放送予定は来年1月とか。。。

※画像右…主人公の「弘知法印」
弘知法印の人形は出家前の遊び人と、画像の出家をして僧侶となったバージョン
と二体あります。座員の人形師「西橋八郎兵衛」さんの力作です。
「本物の弘智さまも、きっと存命中はこんなお姿だったのだろう。」と我々西生寺も
納得の、まったく違和感を感じることのない「弘知法印」です。



≪「弘知法印御伝記」と偶然の発見、「復活上演」までのいきさつ≫
昨年の「おてら通信」でたびたび紹介してきました「弘知法印御伝記」や「越後猿八座」の「過去ログ」が昨年のサーバートラブルで見事に消滅してしまったため、この機会に私の視点から再度紹介したいと思います。

●江戸時代にすでに弘智法印即身仏の人形浄瑠璃が存在した
西生寺「弘智法印即身仏」をモデルにした「(人形)浄瑠璃」が江戸時代に存在していたことは最大の驚きでした。弘智さまが即身仏となってから約300年後です。江戸時代にベストセラーとなった越後の暮らしを紹介した、鈴木牧之の「北越雪譜」で弘智法印即身仏を訪ねる章がありますが、その時代よりも前の江戸時代初期です。

●江戸の一座で上演され、浄瑠璃本としても刊行
「−越後國柏崎−弘知法印御伝記」という題名であり(著者は「孫四郎」とある)、実際に江戸・日本橋の一座で上演され、本にもなって刊行されていました。

●弘智様をモデルにした主人公の物語。その驚きの内容
即身仏となる若者が「弥彦村」に住む猴靴喊有爐箸い設定には正直驚きと戸惑いを隠せませんでした。現実の弘智さまとは見事なまでにかけ離れている設定だからです。しかし人形浄瑠璃という芸能&娯楽の観点や、物語性から見ると「ありかな。」と思います。はらはらどきどきの連続で予想もしない展開が繰り広げられる犂饒枦軍阿米睛騰爐任箸討睫滅鬚な語です。

●「御伝記本」江戸時代に海外へ持ち出される
その「浄瑠璃本」が鎖国政策の江戸時代に、日本を訪れたドイツ人(現代でいう商社マン)により爛灰譽ションの一部爐箸靴討海辰修螢疋ぅ弔愡ち出されました。その後そのコレクションは、大英博物館を創設したイギリス人の手に渡ります。

●大英博物館で偶然発見される!
長い間その存在すら忘れられていた浄瑠璃本「弘知法印御伝記」が、イギリスの大英博物館で昭和43年(1968年)、250年ぶりに日本人大学教授の「鳥越文蔵先生(現早稲田大学名誉教授)」の手により偶然発見されました(資料室の棚の引き出しを開けたら出てきた?そうです)。この発見者が日本人であったということが大きく影響。


●「復刻本」出版
日本に帰国後、鳥越教授は持ち帰った「弘知法印御伝記」やその他の「古文書」などを現代語に訳され、1980年代にそれらをまとめて「復刻本」として出版します。

●「復活上演」構想
新潟市在住で文楽義太夫として活躍をされている越後角太夫さんが、コロンビア大学名誉教授「ドナルドキーン」さんの紹介で、鳥越先生の「弘智法印御伝記」復刻本を知ります(「あなたの好きそうなモノがありますよ。」と言われたそうです)。復刻本を読むと「内容も面白いし、ふるさと新潟でこの弘知法印御伝記を300年振りに復活上演させよう」と角太夫さんは決意します。

●「越後猿八座」立ち上げ
越後角太夫さんは、佐渡に住む文楽人形遣いで佐渡文弥人形「猿八座」の座長さんである、西橋八郎兵衛さんに呼びかけ「弘知法印御伝記」を上演するために、新潟市内に「越後猿八座」を立ち上げることを決定。「三味線弾き語りの節」は、記録が残っていないので、新しく角太夫さんが創作しました。座員(人形使い)を一般の新潟県在住者から募集、2008年1月に「越後猿八座」を発足、素人の座員たちとゼロからの「稽古」を始めます。

●復活上演に向けて稽古を重ね見事に「初演」を飾る〜現在
新潟市内の施設で月に数回、熱の入った稽古を重ね、「プレ公演」を経て、2009年6月ついに物語の舞台ともなっている柏崎市で「初演」を飾り、さらに7月には「新潟県民会館」で2度の上演を成功させます。本格的な稽古場所を求め、新発田市内に「稽古の拠点」を移し、その後新潟県内各所で「上演」を続けながら、「東京上演」をめざしてますますはりきって稽古にはげむ日々。。。

●越後猿八座「弘知法印御伝記」の舞台の様子
「全6段」からなる「御伝記」(舞台は2部構成)、3時間以上のとても長い「上演時間」ですが、越後角太夫さんのめりはりのある「三味線&弾き語り」のテンポが良くまったく飽きることはありません。後半の物語の盛り上がりとともに舞台の迫力は増し、最後は「これでもか」とたたみかける豪華絢爛さ。物語の世界に引き込まれたまま、あっという間の3時間半です。人形製作担当「西橋八郎兵衛」さんの作られた魅力的なキャラクターの人形たちの、時に繊細な、時に笑いを誘う大胆な動き、鮮やかな衣装、そして目をみはる豪華なセットなど見どころ満載の舞台です。

●西生寺との交流
発起人の越後角太夫さん、西橋八郎兵衛さんのおふたりや越後猿八座の座員の方々は何度も参拝をしていただいています。「原本」を大英博物館で発見した鳥越先生がお越しいただいた事もありました。「舞台」で特に私のお気に入りの「セット」が即身仏のお堂や即身仏のお姿なのですが、西生寺の「弘智堂」や、御安置されている弘智さまの様子を本当によく観察されていて爐蕕靴な薫狼き爐たっぷりと表現されています。


2010/09/14(火)
★良寛和尚さまと西生寺











良寛さまといえば、40歳で「五合庵」に入って以来、あしかけ20年ほどを過ごした国上山「五合庵」が有名です。その「五合庵」生活の中で45歳から2年間ほど五合庵を出て、分水や寺泊のお寺を転々と「仮住まい」をされた時期があります。そんな「仮住まい生活」をする良寛さまが「仮住まい」のため当山西生寺を訪れたのは、享和3年(1803年)、良寛さまが46歳の時でした。西生寺には半年ほど滞在されました。

まずは、良寛さまの爐海譴泙猫爐魎蔽韻棒睫世靴泙靴腓Α

良寛さまは1785年(宝暦8年)、出雲崎で名主「橘屋山本家(回船問屋)」の長男として生まれます(幼名は栄蔵、父は以南(与板出身)、母は秀子(佐渡相川出身)。

良寛さまは実家の後継ぎ「名主見習い」となった18歳の時、突然、出雲崎町の禅宗「光照寺」で出家をして4年間を禅の修行に励みます。22歳の時、西国(岡山県倉敷市)の「円通寺」で得度してさらに修行を重ね、諸国行脚の末、39歳の時に北陸道を経て故郷「越後」に帰って来ました。良寛さまはここで初めて実家の「橘屋」の衰退を知り、最初に住み着いたのは「寺泊郷本」の浜辺に立つ「塩焚小屋」でした。

40歳の時、寺泊で医師をしていた親友のひとりである「原田鵲斎(じゃくさい)」が、あちこちで仮住まいをしていた良寛さまをみかねて、自分の菩提寺である「国上寺」の「五合庵」を斡旋してくれたことによって一時「五合庵」に住むことになります。この当時の「五合庵」は8畳ほどの簡素な萱ぶきの小庵で、国上寺住職の「隠居所」となっていました。

45歳の時、国上寺住職が「隠居」することとなり、良寛さまは「五合庵」を出てゆかなければならなくなりました。そんな理由から最初にお話したように、良寛さまは寺泊「照明寺」や「西生寺」、分水「本覚院」などのお寺を転々とする「仮住まい生活」が始まったのです。ちなみに、良寛さまの「仮住まい生活」が2年間で終わったのは、「五合庵」に隠居した元住職の和尚さまが亡くなったため、再び「五合庵」に戻ることになったからです。

そんな理由で、西生寺には半年間滞在をされた良寛さまですが、その間「弘智法印即身仏」に接して詠んだ「漢詩」や「書」など、いくつかの遺墨を残されています。

今回は「弘智法印即身仏」を詠んだ「漢詩」と、「梅盗人の長唄」のふたつを紹介したいと思います。


『題 弘智法印像』という、良寛さまの詠んだ「漢詩」があります。(※「画像右」です)
良寛さまが弘智法印即身仏を拝観し、また弘智さまの「辞世の句」犂篋笋亮腓話ぞと人問わば、墨絵に書きし松風の音爐亡玉辰鮗けてこの漢詩をつくったといわれています。

この漢詩の意味はですねぇ、うーんと、えーと、七文字ずつ行になった漢字を見ると(七言古詩というらしいです)、部分的にはなんとなく分かるような、でも全体としてはちんぷんかんぷん… 正直いってまったく「学」がない私ですので、手っ取り早く「解説」を見てしまいましょう。


【解説その1】:弘智堂前の「案内版」より

≪弘智法印即身仏を拝して≫
ごつごつとして黒くきびしい藤の枝は、夜雨に打たれて朽ち、美しく立派なお袈裟は暁の煙と化した。
しかし、誰がこの弘智法印の本当の目的を知っているのだろうか?
それはただ、「弘智法印の辞世の句」、

『岩坂の主は誰ぞと人問わば、墨絵に書きし松風の音』

の中にのみあり、時空をつらぬいて伝わっているのだ。

(※辞世の句の出てくる地名「岩坂」は奥の院のある場所です)

【解説その2】:谷川敏朗(良寛研究家)訳より

≪弘智法印の像に題す≫
木の肌にしわが流れるような古びた枝は、夜毎の雨に打たれて朽ち果て、単衣の衣も袈裟も朝もやにぬれて薄切れをおこしている。
このような法印の真の精神は、誰が理解できようか。
ただ法印が詠んだ「辞世の歌」によって千年の末にまで伝えられるだろう。

いかがでしたか。さて、もうひとつは「梅盗人」を詠った良寛さま直筆の「長唄」です。(※これは「宝物堂」に展示してあります。)                
≪長唄:のずみのみてらの云々≫
  ※原田鵲斎から5代目の原田勘平さん(良寛研究家)によるひらがな訳

のづみのみてらのむめを さねこじの ねこじにせむと むらさぎも 
こころにかけて かげろうの ゆうさりくれば いはがねの さかしきみちを
ふみわけて たどりたどりに しのびつつ かきねにたてば ひとはみて
かねうちならし あしびきの やまどよもして つどいけり 
しかしよりして よのなかに はなぬすびとの なをおいし きみにはあれど
いつしかも としのへぬれば あしはらの しげこきをやに よもすがら
やつかのひげを かいなでて おはしますらむ このつきごろは
                          越州沙門良寛書

この「長唄」は良寛さまが、5歳年下の親友「原田鵲斎(※五合庵を斡旋した人ですね)」に贈ったものですがその爐いさつ爐呂海Δ任后

原田鵲斎(じゃくさい)さんは梅の木が大好きで、「梅の木のある庭」には、どこへでも出かけて行き、梅を譲ってもらっていたそうです。たまたま、訪ねた野積の西生寺に「梅の古木」があったので、「ぜひゆずって頂きたい。」と懇願したのですが、断わられてしまいました。あきらめきれない鵲斎さんは、人夫を連れてこっそりと西生寺の梅の古木を盗みに行くという、大胆な手に打って出ました。しかし山に入る途中で、野積の村人に見つかってしまい、村中が大騒ぎになり、ついに「梅の古木を入手すること」は果たせなかったということです。

この話を聞いた良寛さまは「まことに風流なおもしろい話だ」と大変気に入り、「梅盗人の様子」を想像してこの長唄を詠まれ、盗人当人である「原田鵲斎」に贈ったのです。

…しかしアレですね、ひょろひょろとした漢字がびっしりの(漢字にすら私には見えませんが)「直筆の書」はまったく訳がわからないけど「ひらがな訳」を見ると、部分的にでも意味がわかるのでうれしくなるものです。たぶんですけどきっとこんな内容ですよ。
「野積の寺の梅を盗むことを心に決めて、ひっそりと静まり返った夜、寺をめざし、道をふみわけながら忍び忍び進むと、突じょ村人に見つかり、鐘を打ち鳴らされて、村中ひとだかりの大騒動となる…」って爐いさつのまんま爐犬磴覆い任垢。

熱心な「良寛ファン」かと思われるお客さまに、たまに
「長唄に詠まれた梅の古木はまだあるのですか?」ときかれますが、残念ながら今はありません。

数年前、私が朝、「雷」のような「地鳴り」のような、もの凄い音を聞いて「なんだろう」と思ったら、宝物堂わきの「梅の古木」が寿命により太い幹が自然に折れて、その時の「バリバリバリ!」という音だった事件?がありまして、その「倒れた梅の古木がもしかして?」とも思えなくもないのですけど、住職が言うには「絶対に違う。」とのことです(ロマンのない人です)。太い幹で、梅の木特有のカクカクとした枝が幾本にも伸びた、なかなかの風流な梅の木だったんですけどね。。。


※画像左…宝物堂「良寛さま」展示コーナー
「…初秋野積村…弘智法印 山内」なんていう良寛さま直筆の書
も展示されてます。
良寛さまのその後ですが、仮住まいを終えた良寛さまは、「五合庵」
で12年間を過ごした後、国上山のふもとの「乙子神社」の草庵で
10年を過ごし、69歳の時に和島村島崎(長岡市)の「木村家」に
移住します。(70歳の時、ここで貞心尼(30歳)と出会います)。
そして天保2年(1831年)1月6日、良寛さまは74歳の生涯を閉
じました。前年夏よりひどい下痢症状と腹痛を患っていた良寛さま、
原因は「直腸がん」と言われています。

※画像右…「弘智法印即身仏」を詠んだ良寛さまの漢詩
弘智堂前の階段わきに案内版があります。この解説は
長老と、原田鵲斎の5代目のお孫さんである原田勘平さん
(先ほど登場)とで考えたものだそうです。


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