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2011/05/09(月)
★その後シリーズ2(山菜編)











「その後シリーズなら、ちょっとスゴイのを見つけちゃったよ(ニヤニヤ)。」と、得意げに教えてくれた住職情報です。
植物に無知な妻を持つと、こんなことでも得意げになれるという一例です。

◎画像左…「ふきのとう」の今

雪の消えないうちに芽を出す山菜の一番選手。毎年かごいっぱいに住職がふきのとうを摘んできて、自ら自慢の「ふき味噌」を作ってくれます。10センチくらいに大きくなって黄色のつぼみをつけた段階まではなんとなく目に入りますが、その後はすっかり忘れた存在に…。これがあのコロンとした愛らしい形のふきのとうとは、植物オンチな私にはちょっと気が付きませんでした。

◎画像右…「コシアブラ」の今

新芽(5センチ〜8センチほどの若葉と茎)を「天ぷら」にするとサクサクの食感とゴマ油のような独特の香ばしさがたまらない、山菜の女王コシアブラ(王様はタラの芽)。そんな爐いしい葉っぱや茎爐睥派に成長して今じゃ「てんとう虫」も余裕で乗せられます。


2011/04/25(月)
★祝「博物館の怪談」展!で「西生寺の怪談」













「寒くないってすばらしい…」って気持ちだけで、3日間くらいおかずなしでごはんが食べられそうなほど、ようやっと春らしい暖かさが定着してきた日々がうれしくって仕方がありません。野鳥のさえずりや桜にチューリップに新緑と、まさに春爛漫の季節を迎えています。

一方世間では、この夏「電力不足」が心配されている東日本を中心に、企業や家庭での節電の実践、節電商品の売り込みなど、あの手この手の「節電対策」が盛んになってきました。新潟県ではやる気満々の知事の掛け声のもと「ピークカット15%大作戦」と言う「節電実験」までやっています。(コレ、東北電力に言われたわけではなく犖が自主的に爐任后新潟って基本的に真面目ですよね…)

さて、当山の「雷獣くんミイラ」も出展している「博物館の怪談」展が、4月23日(土)より「県立歴史博物館」でいよいよ始まりました。震災で一時「中止」を検討したというこの企画展ですが、フル名称は「博物館の怪談−新潟の妖怪と妖怪博士・井上円了−」と言います。

ちょっと気になるのが「妖怪博士-井上円了-」って部分。「妖怪博士-水木しげる-」なら知っているけど、井上円了(いのうええんりょう)の名は初耳です。妖怪博士といえば水木しげるさんが先駆者かと思っていたのですが、もっともっと昔に妖怪博士と呼ばれていた方がおられたのですね。

さっそくこの井上円了について、研究員の方からいただいた資料を読んでみました。

−井上円了は安政5年(1858年)に「越後国浦村(現長岡市浦、旧越路町)」に生まれ、後に東洋大学となる哲学館を設立した人物である。円了の研究は哲学にとどまらず、迷信を打破するという立場から妖怪研究をすすめ「妖怪学講義」を著した。円了が最初に取り組んだ「こっくりさん」の実体解明や、円了の妖怪研究について(今回の展覧会で)紹介する−

なるほど。新潟県出身者ということで今回の企画展にこの方を取り上げたのですね。そして本業は哲学者で、なんと大学まで創立してしまったというすごい方だったのですね。(※現在の東洋大学構内には、東洋大学井上円了記念学術センター、井上円了記念館(入館無料)があります)一方、趣味?で妖怪研究にも熱心に取り組み、日本で最初の「妖怪博士」と言われるほどになってしまったということのようです。

しかし、ちょっと待ってください。どうも本人が妖怪みたいな?水木しげるさんと大きく違う点は、井上円了さんは「反妖怪派」だったということです。「人々をまどわす妖怪や超常現象は、ウソやデマかせである!」を実証するため、結果的には、誰よりも膨大な関連資料を集め、研究に没頭することになったようです。「反妖怪派」ではあるものの、井上円了さんは実は狠よりも妖怪や超常現象にかかわる事が大好きだった爐箸發い┐襪里任呂覆い任靴腓Δ。

井上円了がまず最初に取り組んだのが「こっくりさんの実体解明」だったと紹介されていますが、こっくりさん…なつかしいですねー。久しぶりにこの言葉を聞きました。私にも「こっくりさん」にハマッた時期があり、たしか小学6年生のころです。

「はい・いいえ」を書いた紙と「十円玉」を使ったことくらいしか覚えていませんが、友達と自分の指を乗せた十円玉が、勝手に動き回ることへの驚きと恐怖と「でも、たぶん(自分以外の)他の人がこっそりと指を動かしているにちがいない」と疑う冷めた気持ちも持ちつつ、親にナイショでこっそりと行われた猯遒叛椰┐垢襯▲屮淵す坩扠爐蓮怖いもの見たさと好奇心をくすぐり、しばらくブームでした。

当時、こっくりさんの正体は「低級霊」か「キツネ」だと私たちは勝手に結論づけていました。だから、失敗したら(こっくりさんが怒ったら)「神社のお稲荷さんに油揚げをお供えすれば、おとなしく帰ってくれる」とそう信じていました。また当時世間は、ちょっとした「心霊ブーム」だったので(TV番組「あなたの知らない世界」とか)、「こっくりさんにまつわる恐怖体験談」とか「超コワい心霊体験談」とか「戦慄の心霊写真」とかそういう類の話を男子も女子もまざって、みんな目を輝かせて真剣に話し込んだものでした。

猝多爐埜世┐弌大人になってから、お寺で黒猫を飼っていた時に、交通事故で路上で死んでいるネコを見るとどうしても「かわいそう…」と思ってしまう時期がありました。でも、かわいそうと狆陲鬚ける爐鉢犹爐鵑瀬優海領遒とり憑く爐箸いμ多があることを知り、それからは交通事故死のネコを見ると、わざと明るく「あーネコせんべいだ!」と言う事を心がけています。

「狐憑き(きつねつき)」という言葉もよく言われます。

「良くない霊にとり憑かれる事」を総じて「狐憑き」と言ったりもしますが、これについては「実際にキツネがとり憑くなんてほんとかなー?」と私はまったく信じていませんでした。

しかし、数年前、西生寺に「除霊をして欲しい。」という方がたずねてきて、受付寺務所でその方からくわしく話しをうかがっていた時、私は信じがたい光景を目にしてしまいました。それは話をするその方の、顔のちょうど鼻のあたりが、まるでキツネのように爐咾茵爾鶚爐反びて尖がってきたのです!本人はまったくその事を知る由もなく、話を続けています。

「あーやっぱし、本当にキツネがとり憑くんだなあー。」

と妙に納得した私でした。話を聞いていた住職も猜儔修傍ど佞い伸爐修Δ任后ま、お寺に暮らしているとそれなりにいろいろと、科学では証明できないようなことを体験しますので、いちいちどうってことなくなりました。(霊感が強い子とか、(霊を)見ちゃった子とかが、かなりうらやましかった子供時代がかわいいです。)

長老は「キツネにつままれた経験」を話してくれました。
「昔、夜に弥彦山中のいつも通っている道路を車で走っていたんだけど、この日はいくら走っても走っても、まったく弥彦山を抜けることが出来ず、ぐるぐると同じところを回ってばかりいて、なんでだ?と困った事がたった一度だけあった。」という内容です。

父:「あれがキツネにつままれる、って言うんだねー。実際あるんだなあー。」

ある意味、幽霊を見ちゃうより怖いですよコレって。お父さんの話を聞いて「キツネにだけはつままれたくない」と真剣に思った私は当然この日以来「弥彦山スカイライン」を夜走ることはやめました。


そんなこんなで、6月5日(日)までやってますこの「博物館の怪談」展にぜひ足を運んでみてください。(ちなみに外出するのも節電対策のひとつなのだそうですヨ。何でもかんでも節電ですなぁー)。大人、大学&高校生は観覧料がかかりますが(各700円/500円)、中学生以下のお子さんはうれしい無料となっています。(東日本大震災で新潟県で避難生活をされている方も無料だそうです。現在新潟県には8,000名以上の方が避難されています。)

そして長岡に来たついでに足を伸ばして西生寺にもお参りくださいませ。
みなさん、ゴールデンウィークはお出かけしましょう!

そうそう妖怪といえば、私も最近爐發辰燭い覆いばけ爐筬狎疆鼎ばけ爐とり憑いてしまったようで、「もったいないでしょ!」とか「誰ですか!灯りつけっ放し!」がすっかり口癖になってしまい、「最近の直子さんはこわい、こわい(園子ママ談)」と家族から恐れられています。(いえいえ、鬼ババモードの園子ママの恐ろしさにはかないませんって。)

※画像左…「博物館の怪談」展のポスター
「化け猫」や「三つ目」などの妖怪たちにぐるりと囲まれた、中央の
白髪&白髭のおじさんが言うまでもなく、妖怪博士「井上円了」です。

※画像右…県立歴史博物館蔵「雷獣画図」
西生寺の雷獣くんミイラと一緒に展示される「 雷獣画図」です。
(滝沢馬琴著「玄同放言」の一ページ。描いたのは鈴木牧之。)
江戸時代のこの著書によると「雷獣は、激しい雷雨の時に空中を飛行し、
雷とともに地上に落ちて樹木を割き、人奇を害すると信じられていた」そうです。


2011/04/12(火)
★西生寺「雷獣くんミイラ」出陣!











4月に入っても、予想どおりにひとけのない静かな西生寺です。ヒマを承知のうえで決めていた「境内クリーンアップ作戦」も順調に進んでおります。毎日毎日、広ーい境内のふきだまりに積もったままとなっている、昨秋の落ち葉の掃きそうじを中心にせっせと外仕事にはげんでいます。

一心不乱、あまりに激しい私の爐曚Δ使い爐法竹ぼうきがぐらぐらとあやしい動きを見せ始め、ついに掃いている時、ほうきの柄(え)の部分から、先っちょのふさふさの部分が分離してぴよ〜んと勢いよく飛んでいってしまいました。

なんというか、飛んでいってしまったふさふさを拾いに行く自分とか、ふさふさを拾う自分とか、独立してしまったふさふさを竹の棒(柄)にとりあえずはめてみる自分とか、誰も見ていないからってふさふさが飛んでいっちゃうくらい激しくそうじをしてしまった自分とか、「一本しかないてんね、サイテー。」とかぷんぷん怒りつつも、こみあげる可笑しさには勝てずいっきに脱力しました。

さらに、「いますぐ絶対修理して!」とまるで壊したのが夫(住職)であるかのように、商売道具のほうきが壊れた怒りを夫にあてつけ、応急処置をしてもらって無理やり掃除を再開させてしまう自分や、ムダな衝動買いはすぐするくせに、ホームセンターで買って3年もたつ一本158円の「激安竹ほうき」にはえらく執着する自分など、ここ10日ほどでいろいろな自分を再発見しました。

さて、今回のおてら通信の本題にはいります。主役は西生寺の人気者、宝物堂で暮らす「雷獣くん(ミイラ)」です。(これまでも雷獣くんは何度かここで紹介していますね。)このたびふたたび「企画展への貸し出し」が決まりました。今回は長岡市にある「新潟県立歴史博物館」からの依頼で、同博物館へは2度目の貸し出しとなります。

4月23日(土)から始まる、県立歴史博物館の今春の企画展「博物館の怪談」展で、3部構成のひとつ「新潟の妖怪」の展示ブースに雷獣くんが展示されるのだそうです。(他に一例をあげますと「妙多羅天像(弥彦村宝光寺蔵)」、「河童の手(個人蔵)」、「きつねの卵(新潟市感応寺蔵)」など)

というわけで「雷獣くんを受け取りにくる日」、4月8日(金)午後2時30分、小雨の降るなかを「日通」の大型トラックが一台西生寺に入ってきました。以前も日通さんだったのですぐに分かりました。「待ってました!」というワクワクする気持ちと「ついに迎えが来てしまった…」というさびしい気持ちが交差する私。車から研究員の方が出てきて「雷獣ミイラを受け取りに来ました。」と我々に告げ、2名の宅急便のスタッフとで宝物堂に入っていきました。

昨年12月、「西生寺の雷獣ミイラをお貸しいただけないでしょうか?」と博物館から連絡があり、企画展の趣旨をきいて「どうぞ。どうぞ。」と承諾。それから何度か打ち合わせをしました。住職は私に

「雷獣についている虫とか変なのを全部駆除してくれる爛ンジョウ爐箸いΔ里發錣兇錣兇發靴討れるって。良かったねっか。」
とうれしそうに話していましたが、私はすぐにピン!ときました。

「それって親切心からじゃないよ。あの例のヤツだよ。ほら新潟市立美術館の…」

そう、昨年春、美術館始まって以来の最大の目玉企画として「奈良の国宝の仏像を展示する」という企画展(会津八一と奈良の仏像展)の会場予定だった「新潟市立美術館」の館内から、いてはならない多数の虫の死骸やクモが発見されて、「管理がお粗末。そんな不潔な場所に国宝は展示できませーん。」と文科省にカツを入れられ、中止となってしまった騒動です。(※企画展は場所を移し、長岡市内の「県立近代美術館」で開催されました。)

なぜか全国ニュースでも大きく取り上げられてしまい(あの頃は平穏な世の中だった)あの後、新潟市立美術館は閉館、反省と組織の見直しを余儀なくされ半年以上もたってようやく再開となったのでした。

あの時、私たち西生寺の家族は口々にこう言ったものです。
「あんなカメムシの死骸やクモなんてうちの宝物堂には山ほどいるよねー。」
「虫がダメならウチなんてむごいよー。」
「でも国宝もないし、ま、いいんじゃない。ハハハ」

まさかこんな会話は聞いてはいないでしょうが、研究員の方も実情をよくおわかりのようで
「もしクンジョウをしていないようでしたら、こちらで処理しますが。」との申し出となったのです。

「そういう事だったのか。なんだあ、サービスかと思ったのに。」
「うちの雷獣くんのせいで本当の倏酳館の怪談狆態になっちゃまずいでしょ。」

ただちょっと腑に落ちないのが、数年前にこの博物館の別の企画展で、雷獣くんを貸し出た時には、クンジョウのクの字も言っていなかったことです。今回直接研究員の方に新潟市立美術館の一件と関連しているのかたずねましたが
「いえ、別に関係ありません。」とあくまでも否定されていました。

「クンジョウ」って「燻蒸」と書きます。なんかバルサンの煙みたいのを想像していましたが、聞くと「燻蒸専門の部屋」で行い、煙というよりはガス(気体)なのだそうです。そして駆除の効果は永久ではないのだそうです。

黙々と梱包作業を続ける日通のお兄さんたちにもかまわず、カラカラに干からびた細くて長い小さな小さな雷獣くんの手をそっと握り(やっぱりカチカチだった)、「行ってらっしゃい雷獣くん。こんな時代だからこそ、妖怪魂を発揮して、来館者を驚かせ楽しませてあげてね。しっかりお勤めを果たすのですよ。」とお別れの言葉をかけました(お兄さんたちちょっと引く…笑)。

ふと背中からなにやら視線を感じふり向くと、同じく宝物堂に展示してある迫力満点の大きな「タイリクオオカミ夫婦のはく製」のお母さんオオカミと目が合いました。

爛ンジョウ、良イデスワネ…

ソフトなふかふかのマットや布にくるまれ「VIP扱い」を受けて旅立つ、友達の雷獣くんをそばで送り出す2匹ですが、どうやら「燻蒸処理」を相当にうらやましがっている様子でした。(君たち、一年に一度焚いている心尽くしのバルサンじゃだめか?)

ま、こんなかんじで雷獣くんは旅立って行きました。けっこうあっちこっちからひっぱりだこの人気者の雷獣くん。わざわざ研究のために遠くから雷獣くんを見にくる方もいます。雷獣くんは、鈴木牧之の描いた「雷獣の絵図」とともに展示されるそうです。

県立歴史博物館の「博物館の怪談」展は、4月23日(土)〜6月5日(土)までです。ちなみに雷獣くんの出張中は、博物館側が用意してくれた「パネル写真」の展示となりますのであしからず(今ちょうど博物館よりパネルが送られて来ました)。


※画像左…梱包した「雷獣くん」を回収トラックに積み込んでいるところ
今回の企画展で展示するいろいろな「お宝」を、この日は一軒一軒
まわって集めているのだそうです。それにしても研究員のお兄さんも、
日通のスタッフも、夢中なのは「雷獣くん」だけですぐそばで視線を送って
いた「タイリクオオカミ 夫婦のはく製(注:クンジョウ希望中)」には見向き
もしなかったです…かわいげらな〜(新潟弁で「かわいそう」の意味)。

※画像右…ふかふかな素材にくるまれて超気持ちよさそうな雷獣くん
こんなやすらかな表情の雷獣くんなんて見たことありません。
見てください、お布団?からちょこっと出た彼の手を!カワイイ〜。


2011/04/01(金)
★受付寺務所OPEN!











東京では桜が開花したそうですが、「3月11日」を境に季節のうつろいすら止まってしまったかのように、彼岸が過ぎても小雪の舞う寒い日が続いている新潟です。雪解けがおそく、例年ならとっくに最盛期の見頃を迎えているはずの「雪割り草」や「二輪草」などの春の野草も、ようやくぽつぽつと小さな白い花を咲かせはじめました。

さて、3月31日まで「冬期閉鎖中」だった「弥彦山スカイライン」が今年も開通しました。「弥彦山山頂」や、内陸側の「弥彦神社&弥彦温泉エリア」から、海側の「寺泊エリア」を結ぶ、重要な交通ラインとなっているスカイラインが閉鎖する冬場は、西生寺を訪れる拝観者数もいっきに減ります。例年だとスカイラインが開通すると、ぼちぼちと当山を参拝する方も増えるのですが、今年ばっかりはそれも期待できそうにありません。

もちろん東日本大震災の影響です。仕方がないです。観光シーズンが始まった早々すでにあきらめの境地で、期待感を抱く気持ちすらさらさら無いのですが、こっち方面(新潟県内)でも地震いらい、「旅館&観光地」のお客さんの激減ぶりは深刻です。いつも大勢の観光客で賑わっている「寺泊アメ横(魚市場)」も駐車場は閑散としていて、昼食時でもまったく観光バスがゼロだそうです。「ゴールデンウィーク先まであった予約も99.9%がキャンセルです。」と町役場の方が言ってました。

西生寺もあまりに参拝者がぱったりなので、例年ですとメインとなる「受付寺務所」も「お彼岸」から開けるのですが、とりあえずお彼岸の休日だけ開けて、3月いっぱいは母屋でうだうだと過ごしていました。地震いらい、気持ちがちっとも活動モードになれず、パソコンやインターネットもする気にもなれず、現実逃避をするようにひたすら母屋の自分の部屋にこもり、読書に励んでいました。

しかしいくら参拝者が少ないとは言え、いつまでも母屋でうだうだしているわけにはゆかず、すっかり爐覆泙吋哀鮫爐ついてしまった身を奮い立たせて?「スカイライン開通」に合わせて「受付寺務所」をOPENいたしました。

「毎日毎日一日中こんな狭い所に閉じこもっていて大変でしょう。」

と、よく人に言われますが、結婚いらい「受付寺務所の仕事」を任されている私にとって、ここは大切な職場であり、たわいもない日常のほとんどをすごす場所であり、すっかり自分仕様に改造されているので?居心地はかなり良いです。私の人生の一部ともいえる犲付寺務所ライフ爐加わった本来のおてら生活が始まると、きっと自然と自分のペースを取りもどせると思うのですが。。。

当分のあいだは寺務所も爛劵泙修Ν爐覆里如憤貲中ヒマだったらどうしましょう!)、とりあえずはお寺のいろいろなところを爛リーンアップ爐垢襪海箸砲靴泙靴拭寺務所まるごと、宝物堂、古くなったお守りの説明文の書き直し、側溝の落ち葉をかき出す、境内や水子さまエリアの掃きそうじなどなど、こうして書き連ねてみると、やることはいくらでもあるのですねぇー、びっくりー。

まずは気分転換に、10年近くも「お守りコーナー」の軒先にぶらさがっていた、すっかりボロくなってしまったバリ島産の「竹の風鈴」をこのあいだ買ってきた新しい「2代目風鈴(※)」に取り替えてみました。

(※「オレオレプラザ行く?業者が仕入れにくる店だから激安だよ。」と、チャーター車のドライバーの推薦でデンパサールにある「オレオレプラザ」という名前の店で買いました。まるで「オレオレ詐欺」みたいな名前に笑いが込み上げ、何の期待も抱かないまま連れて行かれたのですが、本当にほとんどの商品が市場の半値以下でした。「オレオレ」とは「おみやげ」という意味なのだとあとで知りました。)

この風鈴、音色がとってもとってもステキなんです。新潟にも早くあたたかくやさしい春風がそよぐ季節が訪れて、竹の風鈴が奏でるボロンボロンという、やわらかく素朴な音色が聞ける日が来ることを祈りつつ、次なる「クリーンアップ」はきな粉みたいな黄緑色の杉花粉にまみれた寺務所の外回りの「拭きそうじ」をすることにしました(うわっ、ひどいわ、花粉症じゃ西生寺では暮らしていけなかったなー)。

ということで今年も冬眠から目覚めた西生寺です。「弘智法印即身仏さま」の拝観や「水子さま」お参り、「永代供養墓」見学や境内の自然散策、バリ風鈴をボロンボロンなどなど、今年も皆さまの参拝を心よりお待ち申し上げております。。。


※画像左…今年の境内第一号「カタクリの花」
他のカタクリの株はまだまだ葉が出た程度か固いつぼみの状態ですが、日当たりの良い場所にあったこのひと株だけが早くも薄むらさき色の釣鐘状の花を咲かせていました。こんなご時世でも自然界の営みに狂いはなく、季節は確実に「春」に向っていることをじみじみと感じました。

※画像右…今年初めて見つけた境内に咲く「雪割草」
西生寺境内の雪割り草の開花は例年より10日以上は遅いと思います。日本海に向かって手を合わせる「野仏さま」の足元に、ひっそりと咲く高さ5センチほどの小さな小さな株をみつけました。私にとって今年初めての雪割草の花でした。いつにも増してこの花の持つ凛とした力強さを感じました。


2011/03/17(木)
★帰国報告












今回の東日本大震災で犠牲となられた方に心からご冥福をお祈りいたします。
被災された方々にはお見舞いを申し上げます。
一日も早いライフライン の復旧 と被災地の復興を心から願っております。


1ヶ月半の長旅を終え、無事に西生寺に戻ってきました。帰国直前、滞在先のタイのチェンマイで日本の大地震と津波を知った時は息が止まるほど驚いて全身に鳥肌が立ちました。地元タイも含め世界各国のメディア(ニュース)すべてが「日本壊滅」として、現実とはとても信じ難いような地震と津波の衝撃的な映像をくりかえし報道するので、もう旅行どころの気分ではなくなり、ホテルの部屋のテレビにくぎ付けになりました。(大惨事だった2004年のプーケットの津波を経験しているタイでは人々はみな津波の怖さを知っていて、多くの知人のタイ人が心配をしてくれました)


その後、長野と新潟の県境でも大きな地震があったことを知りました。ちょうど従姉妹のお寺がある地区です。ますます西生寺のことが心配になったものの、国際電話は何度かけてもまったく通じませんでした。日本から離れて外国にいると、こういう災害などの非常事態の時に、ただ情報を入手するだけでまったく手も足も出ないという事を痛感し、「いったい日本国内はどうなっているのだろう…。」と不安と緊張を抱えて帰国しました。


我が家に帰り着き、西生寺の家族とも再会し、船橋や横浜に暮らす両親兄弟の無事を確認してほっとしたものの、1000年に一度という、広範囲に及ぶ巨大地震や巨大津波の被害はあまりにむごく、水に押し流された家屋や車の残骸が散乱する瓦礫の山と化した町跡や、一瞬にして水没してしまった集落など想像を絶する惨状に言葉も出ません。


増え続ける亡くなられた方の数や大勢の行方不明者、被災地で絶対的に不足している医薬品や燃料、避難所や倒壊をまぬがれた自宅で不自由な避難生活を送る方、予断を許さない状況が続く「福島原発」の爆発や放射能漏れによる混乱と恐怖、避難する住民の不安、各地で相次ぐ地震、長期化が予想される計画停電、日本の産業経済への影響、そして全ての被災地の復旧と復興…。


新潟県内ですら食料品やペットボトル、電池、トイレットペーパーなどの品切れや品薄が続き、ガソリンや灯油の不足が起こりつつあり驚きをかくせません。まったく先が読めない、私自身経験したこともない未曾有の事態に、1ヶ月半にもおよんだ私の旅のことなどいっきに吹き飛んでしましました。

「第2次世界大戦以来のとんでもないことがいま日本で起こっているんだ。」


「現実」を冷静に受け止め、とりあえず「節電」、無用な「買いだめを控える」など自分に出来ることを実践して、東京電力に続き、東北電力でも始まった「計画停電」に前向きに協力するだけです。被災者や避難所で過ごしている方の心情やご苦労、今回の地震や津波で犠牲となられた多くの方々を思うと、こうしてふつうに日常生活を送ることができているだけで、これ以上望むことは何もありません。


(今「おてら通信」を書いている時、2児の母である横浜の妹から「息子(生後9ヶ月)の紙おむつがあと2-3日で使い切ってしまうのに、どこの店をさがしてもまったく売ってなくて、ネット注文でさえ入荷日未定で手に入らなくて困っている。まさかオイルショックのようなこんな事態になるとは思いもよらず、もしお姉ちゃんの新潟でまだ売っていたら送ってほしい。」と電話がありました。横浜での「物品(ガソリン等も含め)」の品薄&品切れ状況は新潟よりひどいそうで、なんと入場制限を設けているスーパーもあるそうです。めったに姉を頼らない妹の願いに、私はいてもたってもいられなくなり、電話を切るなり「おてら通信」を中断して、さっそく車を飛ばしてホームセンターに走り、指定サイズで残っていた2個(約10日分)をなんとか手に入れ、全く手に入らないという電池やその他なんだかんだと家にあるものを急ごしらえで荷造りをし、宅急便で送りました。)


(↑理由により中断していた「おてら通信」再開)
えっと…「お寺の近況」としましては、帰国翌日にさっそく毎年恒例の「お釈迦さまだんご作り」をしました。園子ママと肩を並べて、ひたすら4色のだんごを丸めているうちに、しだいに自分が阿刀家の嫁に、住職の妻に、寺庭婦人にと猖寨茲亮分自身爐北瓩辰討いのを感じるのでした。


園子ママとの会話はおのずと今回の東日本大震災の話から、戦時中や日本中が焼け野原となりゼロからスタートした戦後復興の数々の苦労話に…。物資不足、食糧不足のひもじさ、生きるためには子供といえども必死だったなどの話は、電力不足で街中が節電で薄暗く、欲しい食材も品物も売り切れてしまってなかなか手に入らない現在の状況下で聞くと、いままでにないくらいくらいにリアリティを増してズシンと重たく私の心に届くのでした。


蒸し上がった「お釈迦さまだんご」は客殿に運び、住職が準備した「お釈迦さまの涅槃図」の前の祭壇にお供えをして、お経をあげたあと、袋に分けて各檀信徒の家庭に配りました。お釈迦さまが亡くなられた日の「3月15日」に「だんごまき」をする寺院もあります。


※画像左…タイ・チェンライ郊外の寺院「ワット・ロンクン」
タイの有名なアーティストが自費で建立したお寺ですべてが純白という
かなりのインパクトがある寺院でした。


※画像右…お釈迦さまの「涅槃図」と今年の「お釈迦さまだんご」
今年のだんごの味は少し猜雑な味爐するかもしれません…。


2011/01/29(土)
★冬の日本海地元グルメ「水ダコ」











「おーい、タコやってるぞー。」とお昼すぎに一本の電話。

「待ってました!」とばかりに、住職と私は村の網元の漁師さんの家へと車を走らせました。今、地元寺泊沖の日本海では「水ダコ漁」が行われています。午前中に水揚げをした「水ダコ」を大きな釜に入れ、ものすごい火力でいっきに茹で上げている作業現場からの爐誘いの電話爐覆里任靴拭

電話をしてくれた漁師さんとは、住職の長年の親友である「定置網漁」の網元の石井正門(いしいまさかど)さんです。正門さんの船「招福丸(しょうふくまる)」で捕った新鮮な魚は四季を通じて西生寺の食卓に上ります。(毎年正月用に住職が巻く「塩引鮭」も正門さんの船であがった選りすぐりの鮭です。)

水揚げしたあとすぐに自宅の作業場で茹でる正門さんの水ダコは、ほかでは味わえないほどとにかく絶品で、我々家族の大好物となっています。適度の塩分でタコの風味が凝縮されていて、味が濃厚な正門さんの水ダコを初めて食べた時「タコってこんなに美味しい食べ物だったのか!今まで食べていたタコは一体なんだったの?」とその美味しさにびっくりしました。

日本海の冬の味覚といえば「ズワイガニ」や「寒ブリ」が特に有名ですが、新潟の「寒ブリ漁」は佐渡がメインです。今年は佐渡ブリも異常なくらいに豊漁な一方、アジや平目などの他の魚の漁獲量が少ないとのことです。知名度は「カニ」や「寒ブリ」ほどではありませんが、「水ダコ」はここら辺では冬を代表する味覚で「高級食材」として知られています。

たこ焼きの具にもなっている「真ダコ(石ダコ)」など、タコにも色々な種類がありますが、「水ダコ」は日本海で捕れる大型のタコで、大物だと重さが30キロもあり、足一本だけで太さ7−8センチ、長さが一メートル以上もあります。足一本が3000円くらいするかなり高価な食材です。

正門さんの「招福丸」の場合、秋から始まった「鮭漁」が12月初旬に終わり定置網を引きあげると、次に始まるのが「タコ漁」です。海底に仕掛けた「タコ箱」にタコが入り込んだところをひきあげます(水ダコ漁はたこつぼではなく、木製の四角い箱を使います)。

新潟市内へ向う「シーサイドライン」は冬の間は「水ダコ街道」と化します。ちょうど「タコ漁」をしている船の「漁港」をいくつも通過するからです。週末になると大きな釜でタコを豪快に茹でている光景を幾度も目にします。寒空に釜から勢いよくあがる湯気が、なかなかの風情を感じます。足を一本一本、ビニール袋に入れてぶら下げているところを見ると、多分「直売所」も兼ねていると思われます。

この日「招福丸」チームは、午前7時にタコ漁に出発してお昼前に寺泊漁港に戻ってきたそうです。我々が到着すると、正門さんと息子さんなど招福丸のメンバー4人が作業場にいて、分担してタコを茹でていました。ぐつぐつと煮えたぎり、湯気をあげる「巨大釜」の周りには、大きいのから小さいのまで茹でる前の下処理をしたタコがだらりんこと何匹もぶらさがっていました。何回かに分けて一度で20分くらい茹でるそうです。

さて、高級食材の「水ダコ」ですが、正確に申しますと「オス」と「メス」では商品価値が全く違います。おいしくて高級品となるのは「メス」です。「オス」はここら辺では「ダボ」と言って馬鹿にした扱いをします。水分が多く、ただグニャグニャとしているだけで、ぷりぷりとジューシーなメスに比べると食感や味もかなり劣るからです。正門さんの所では「メス」だけを茹で上げます。(しかしながら、スーパーでわりと安値で売っている水ダコを見ると、オスの爛瀬椨爐多いです。)

売っている「茹でダコ」の爛スメスの見分け方爐箸靴討蓮▲坤丱蝓峙枷廖廚任垢諭タコの足は吸盤が2列に並んでいるのですが、その吸盤をぢっと観察するとオスの吸盤は立体度がなく、口が開きぎみで、ぐにゃんとしています。メスの吸盤は立体的で吸盤が盛り上がっていて内部の突起も立派です。身を押してみても弾力が違うのでわかります。とは言え、これは慣れた人でないと一般の人ではなかなか見分けるのは難しいと思います。

大きな足一本が3000円以上もする超高級品ですが、我々は「お友達値段」でいつもおまけをして分けてもらっています。今回は「足4本」を真空パックにしてもらいました。この正門さんの茹でダコと新潟の上等な日本酒の組み合わせが、今のところ私の「酒のさかなナンバーワン」です。

そうそう「足」の他にいつも「内臓1セット」をおまけでパックしてくれます。足も大変おいしいのですが実は、卵、胃、腸などの「内臓」が「足」以上のおいしさなのです。しかし「内臓」は漁師さんたちが食べてしまいますので市場にはまったく出回りません。正門さん達も「タコ漁の日」は、一日の仕事のしめくくりに茹でたてのタコの内臓をつまみにお酒を飲むそうです。

「お誘いの電話」でいそいそと駆けつけた我々の最大の目的も、最高の珍味である茹でたての水ダコの「内臓」を味見させてもらうためだったのです。。。

「魚がおいしい海のそばに暮らしていて良かったなぁー。」
「漁師さんが友達ってグルメだねー!」
と思う瞬間です。


※画像左…茹で上がった「水ダコ」
この日一番大きなタコの足。ぐつぐつ湧き立っている釜の中から正門さん が
撮影用に取り出してくれました。正門さんの手はグローブみたいに超肉厚な
手をしていてそれが自慢です。「海の男」の手です。漁師になって数年目の
後継ぎの息子さん(20代)の今ハマっている趣味は「戦国の城めぐり」だそう
です。このお兄ちゃんがずっと小さい頃から成長を見続けてきた私は、漁師の
道を選び、すっかりたくましくなった姿にちょっと感慨深いです。
招福丸チームの「水ダコ漁」は週一くらいのペースで3月いっぱい続きます。

※画像右…「タコ釜茹で」作業場風景
作業場の軒先にだらんだらんと垂れ下がったタコ(画像右上)が店先の「のれん」
みたいなので、のれんをくぐる真似をして「へいらっしゃい」とか言ってふざけていた
ら、うっかり本当に「のれん」をくぐった状態になってしまって大変なことに…。
髪や上着がネバネバとぬめったタコの液まみれになってしまいました。
住職に「汚いヤツだなー。車に乗せてやらない。(寺まで)歩いて帰って来い。」
とさんざんしぼられてしまいました。


【お知らせ】
今年も恒例の「放浪の旅(1ヶ月はひとり旅、その後夫と合流)」に出ますので「おてら通信」の次回更新は3月とさせていただきます。6年ぶりにバリ島へ行き知人を訪ねたあとタイのバンコクへ。タイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族をたずね歩く「トレッキング」や、大好きなチェンマイを拠点に、車を借りてタイ北部を周遊する旅を予定しています(ドライバーは夫)。


2011/01/15(土)
★スキー発祥100周年「元祖スキー天国にいがた」












日本にスキーが伝わってから今年でちょうど100年だそうです。そして100年前に日本で初めてスキーの産声が上がった場所が新潟県の雪深いところにある上越市高田地区なのです。「冬のレジャー」としてすっかり定着したスキーは、実は新潟から全国に広まっていったのですね。

ということで、今年の冬の「新潟県観光プロジェクト」は「元祖スキー天国」と称して、自治体と県内スキー場と連携して、100周年記念式典や、数々の記念イベント、多彩なスキープラン、こども無料スキー教室、地元グルメプラン、温泉プラン、外国人客誘致などなど、アイデアを絞って多彩に取り揃え「県内外から多くのスキー客に来ていただいて、お祝い気分でスキーを楽しんでもらおう!」と例年になく盛り上がっています。

新潟県のスキー客のピークは1992年の1600万人だそうで、スキーブームが過ぎたあとはじりじりと減り続け、昨年はついに500万人を割ってしまいました。県内のスキー場では最近のスキー客減少を挽回しようと「スキー100周年」の今年に勝負をかけているようです。

100周年の節目となった「スキー発祥の日」の1月12日は、新潟のメディアはこぞって「スキー100周年」を取り上げました。テレビで「特集番組」を放送したり、新聞では爛好ー100年のあゆみ爐覆豹凜據璽犬砲錣燭襦峭覯敍箪検廚魴悩椶靴燭蠅函∋笋陵汁朧幣紊稜の入れようでした。この日一日だけで私は、雪国の新潟の人々にとってはスキーは大切な観光資源であると同時に猜顕修任△襪海鉢爐覆匹鮹里蝓△△蕕燭瓩董屮好ー大国新潟なんだなぁ。」と実感しました。

毎日氷点下でイヤになるほど雪がふり、真っ白な雪景色を見ながら暮らしているので、「わざわざこれ以上寒くて雪深い所には行きたくない。」と、現在はスキー場にまったく足を運ばなくなってしまった私ですが、私がスキーを始めたのはバブル後期の高校生のころでした。まさに「スキー黄金時代」の幕開けといった時代でした。神奈川県の川崎に住んでいた私は「新潟はスキーに行くところ。」と単純に思っていました。

生まれて初めてのスキーは、小学校のころに通っていた「塾」のツアーで行った新潟県塩沢町の小さな「ファミリースキー場」でしたし、高校生の時に初めて行った本格的なスキー場も湯沢の「上越国際」でした。その後も結婚するまで「妙高赤倉・杉野原・池の平」、「石打丸山」、「苗場」など、新潟県内のスキー場ばかり訪れていました。スキーシーズンになると、東京駅の長距離バスの発着所にはツアー別、訪問別にずらーっと「夜行スキーバス」が並び壮観でした。あの頃はスキー場はどこも満員で「リフト待ち」の長蛇の列ができていました。

結婚してからの90年代もまだまだスキーブーム(バブル景気とも言う)は続いていましたが、傾向は次第に変化して「アフタースキーは豪華リゾートで過ごす」みたいな「オシャレにスキー」みたいになってゆきました。続々と新規スキー場や豪華なスキーリゾートホテルがオープン。県内最大のスキーエリアである湯沢町は、結婚した頃はすでに高層の「リゾートマンション」が何棟もそびえ建っていて、当時は「東京都湯沢町」などと呼ばれていました。上越新幹線の駅とゲレンデを直結した日本初のスキー場「GALA湯沢」がオープンしたのもこの時期で話題を呼びました。

住職は雪国育ちだけあり、子供のころから普通にスキーをしていて、普通にスキーが上手だったので、結婚してからしばらくは我々も「スキーブーム」に乗り、新婚気分で北海道、長野の志賀高原、横手、福島の磐梯、猪苗代など、重たい雪質の新潟を避けてスキーをしによく遠出をしました。

人気スキーリゾートのホテルの予約は、秋の「予約開始日」当日にすぐに電話をしないと満室になってしまうという状況でした(この時代はネット予約なんてのもありません)。今になって思い返すと、なぜあんなにスキーやスキーリゾート滞在に燃えていたのかさっぱりわかりませんが、とにかくそういう時代でした。

スキー場といえば、西生寺(正確には長老)が40年くらい昔、スキー場を経営していた事はあまり知られていません。スキー場経営より少し前に、温泉を堀りあて、西生寺境内で「温泉旅館」を営んでいましたが、旅館が軌道に乗ったあと、経営が悪化していた新潟県加茂市にある「猿毛岳スキー場」「を買い取って営業を引き継いだのです。小学生だった住職は、両親の経営するそのスキー場で、朝から夕方まで自由にスキーを楽しんだそうです。しかし、雪不足で赤字になり、3年ほどで閉鎖したそうです。

話をふたたび「スキー発祥100年」に戻しましょう。100年前の明治44年(1911年)1月12日に日本で初めてスキーの指導が行われた高田ですが、スキーって意外にも軍隊が発祥だったのですね。

そのいきさつは、「日露戦争」で大国ロシアに爐泙気の勝利爐鮗めた小国日本に世界中が注目していた頃、オーストリア・ハンガリー帝国の軍人の「レルヒ少佐」と言う人が視察のために来日して、新潟県高田町の「陸軍第13師団」に赴任しました。そして師団長だった長岡外史(ながおかがいし)中将のすすめで、同師団隷下の☆陸軍歩兵第58連隊にスキーを教えたのが始まりです。

レルヒ少佐は、「ひげの師団長」として地元住民からも親しまれていた、豪傑やり手の長岡外史と意気投合し、ふたりでスキー普及に尽力しました。スキーを「雪国ならではの冬のスポーツ&娯楽」ととらえ「講習会」を行うなどして軍隊から民間へと広めました。

「スキー」と言っても、今のスタイルのスキーではなく、「一本杖スキー(※正式名:リリエンフェルト式スキー)」という、短い竹製のスキー板と先のとがった長い杖(つえ)一本をストックに使う独特のスタイルです。レルヒ少佐が高田部隊にスキーを指南した「金谷山(かなやさん)スキー場(上越市)」も現役です。同スキー場では毎年「1月12日(スキーの日)」に「レルヒ祭」を開催、当時の恰好をして「一本杖スキー」を披露しています。ただ市街地にあるため積雪が少なく今年はまだオープンしていないみたいです。

レルヒ少佐が赴任する数年前の明治40(1907年)年1月、城下町として栄えていた高田は「新設師団」の誘致合戦に勝ち、師団衛戍地(えいじゅち)となった以降は「軍都高田町」へと急速に発展しました。師団隷下の各部隊(歩兵、野砲、輜重兵、騎兵など)の駐屯地、師団司令部、衛戍病院、居住地区、関連施設など、その全てを含めた「軍関連の敷地」はびっくりするくらい広大なものでした。その跡地の一角に現在「陸上自衛隊高田駐屯地」があります。

趣味の「陸軍郷土部隊研究」を兼ねて私は時々「陸自駐屯地」を訪問します。たいていの自衛隊駐屯地は、かつての歩兵郷土部隊などが置かれていた場所にあるので、その部隊の資料や歴史を展示した「資料館」があるからです。昨年3月に住職と「高田駐屯地」を訪れることがようやく叶いました。(事前電話予約)

高田駐屯地訪問の目的は、☆高田58連隊や一時兄弟連隊だった☆村松30連隊、伝統の野砲部隊の資料を見ることです。(58連隊がスキー発祥の部隊というのはなんとなく知っていましたが、58連隊といえばやっぱりインパール作戦です。)

レルヒ少佐や当時のスキー部隊(高田58連隊)の写真や資料、その他いろいろと戦争関連のモノが展示されている「郷土資料館」や、明治時代に建造されたままの状態で保存されている、珍しい木造長屋の「野砲収納庫」など、駐屯地内を丁寧に案内をしてくれたのが、広報課の若手の自衛官でした。(途中でこの男の子は「ちょっとこの人、くわしすぎでーす。自分ではダメでーす。」と上司を呼んで来ましたので案内は2人となりました。)

広報課によりますと「高田駐屯地」でもこの「スキー発祥100年祭」の盛り上がりに乗り遅れまいと、(限られた予算内で)いろいろと犧鄒鎰爐鮃佑┐討い襪箸里海箸任靴拭

スキー発祥の郷土部隊、レルヒ少佐ときっかけをつくった長岡外史師団長、ドラマ「坂の上の雲」で活躍中の秋山好古師団長など「同地ゆかりの人気の将軍」と、現在の「高田駐屯地のPR活動」とを連結させて、より多くの人に「駐屯地」を訪れてもらい、スキー部隊の特別展示などで工夫をした「資料館」などを見学してもらって、地元の人たちとの交流や親睦を深めたいと願っているそうです。

そしたら昨年の秋ころ、上越市の「レルヒ少佐のマスコットキャラ」に連動して、陸自オリジナルで長ーい髭がおちゃめな「長岡外史マスコットキャラ」を発表していました。その発表をしていた自衛隊の人は、私たちを案内してくれたあの広報課の男の子でした。「おっ、がんばっているな」と思いました。(レルヒさんと外史と仲良く並んだイラストの「缶バッチ」なども販売中。)

高田駐屯地を訪れたのは3月半ば。この日はちょうど「退官式」が行われる日でした。式が始まるというので「見送り」のため自衛隊員の方々総員が忙しそうに行き来するなか、私たち夫婦はのんきに「広報室」で案内をしてくれた二人と、雑談をしながらお茶をごちそうになっていると(中越地震や中越沖地震での出動秘話とか)、突然、山口百恵の「いい日旅立ち」が館内放送でかなりのボリュームで流れ始めたのでびっくりしました。何事かと思ってたずねると、

「退官式では退官する人の好きな曲が流れるのだけど、何もリクエストがないと爐いて旅立ち爐砲覆襪鵑任垢諭次幣弌法」
とのことでした。。。


「スキー発祥100年」の節目となる今年のスキーシーズンに向けて、新潟県知事が「スキーは忙しい日常生活を離れ、別世界へといざなうすばらしいスポーツです。子供さんは無料のレルヒさんスキースクールに預けて、久しぶりに夫婦でスキーを満喫されてはいかがでしょう。」と「県民だより」で呼びかけていました。

知事の呼びかけに応じて、15年以上も放置したままになっている「派手なスキー板&ブーツ」を思い出し、ひさしぶりに恐る恐る「納戸」へ見に行くと、さびついてすっかり無惨な姿になっていました。なんだかなつかしさを通り越して、我が家の中に思わぬ「バブルの残骸」を見たような気持ちになり、そのままそっとその場を離れたのでした。


※画像左…築100年以上の砲兵部隊「火砲収容庫」
日露戦争のころに建てられた、築100年以上になる砲兵部隊の「火砲(大砲)」
を収容していた美しい長屋造りの木造建築です。全く同じ長さ、同じ造りのものが
並んで2棟あります。陸自駐屯地内にそのままの姿で保存されているのは珍しいそ
うです。中は現在は倉庫になっていました。
そうそう、あの「蒋介石」も若い頃に、ここの野砲連隊に入隊して軍事を学んだこと
があるそうです。特別扱いはなく「毎日の馬の世話が辛かったけど良い経験だった」
と後に語っています。

※画像右…高田第13師団第4代師団長「秋山好古」中将
自慢の髭のお手入れに余念がなく「ひげの師団長」で親しまれた長岡外史は今回
「スキー100周年」で有名になりましたので、次の第13師団長となった「秋山好古
(あきやまよしふる)」に登場してもらいました。日露戦争で活躍し「騎兵の父」として
名を馳せた好古でしたが、好古が師団長の時はちょうど「満洲警備」で3年間も内
地を離れていたので(大正2年〜4年)、地元にはあまりなじみの薄い師団長だった
そうです。
しかし高田13師団も、大正14年の「軍縮」で師団は廃止(高田58連隊は昭和
12年復活、13師団は仙台で復活)、軍都として発展した高田の町の衰退ぶりは
目を覆うほどだったと聞きました。


2011/01/02(日)
★謹賀新年−西生寺近況報告−











みなさん、新年明けましておめでとうございます。
本年も西生寺&HP「おてら通信」をどうぞよろしくお願いいたします。

「年末年始は大荒れ」という天気予報は見事にはずれ、晴れ間がのぞくおだやかな新年の幕開けとなりました。弥彦山スカイラインの冬期閉鎖ですっかり「冬眠状態」の西生寺も、今年の元旦は例年よりも多くの方のお参りがありました。

そうそう、元日の朝、ちょっとうれしい事がありました。誰もいない境内の駐車場で、久しぶりに「永代供養墓天翔園」の裏山を爐佑阿薛爐砲靴討い襦¬逎Ε汽の「うさぎどん」と遭遇したのです。最近たまに同じく白色をした、まんじゅうネコの「ねこどん」も出現するので「どっちどん?」と思ったら、うさぎどんでした。

食用ウサギかと思うくらいに野ウサギにしては大きく、どったんどったんと重たそうな「うさぎ跳び」は相変わらずだけど、少し痩せたように見えました。このうさぎどんは、夏毛(茶色)と冬毛(白色)の生え変わる時期には「全身が白、足だけが茶色」の「ソックスうさぎ」というレアな姿で現れたり、しぐさがやけにおやじくさかったりと、何かとほっとけない愛嬌のある野ウサギで、西生寺境内に暮らす野生動物のなかでも、私のお気に入りの一匹(一わ?)です。

「卯年になって早くもうさぎどんに会うとはねー。気が効いてるじゃん、うさぎどん」
「フンっ」

「でもうさぎどんは爐匹辰燭鶚爐世ら、ちっとも飛躍っぽくないよねー」
「(ほっと)けっ」

卯年ついでにもう少し西生寺の野ウサギの話をしましょう。古参の「うさぎどん」の他に西生寺には、俊敏な動きが特徴の「ピータージュニア」と呼んでいる、小柄な野ウサギが「宝物堂」の裏をねぐらにしています。「ピータージュニア」は新参ウサギです。同じ境内でもそれぞれナワバリが違うようです。ピータージュニアはわりと頻繁に姿を見かけます。

それと17、8年前に「受付寺務所」裏の溝に落ちて動けなくなっていた、手のひらに乗るほど小さな子ウサギを救出したことがありました。「ノノ(野野)」と名付けて飼うことにしたのですが、この子は衰弱がひどくてまもなく死んでしまいました。(あの時は本当に悲しかった、なつかしいなぁノノ…)


さて、続いては「弘知法印御伝記」でおなじみの「越後猿八座」のお話です。BS−TBSテレビの「新春スペシャル番組」で1月3日(月)午後2時より「越後猿八座」のドキュメンタリー番組「幻の古浄瑠璃が蘇えった!!」が放送されます。

「越後猿八座」立ち上げから幻の人形浄瑠璃「弘知法印御伝記」復活と、ひとつの大きな目標であった昨年の10月30日・31日と2日間にわたって行われた「東京公演」成功までを追ったドキュメンタリーです。

実は昨年の10月、西生寺でも番組の撮影(ロケ)が行われました。西生寺では、御伝記のモデルとなった弘智法印さまが、即身仏になるための修行を行った「奥の院」で「修行の様子」を再現したり、「弘智堂」で「弘智法印即身仏」の撮影を行いました。それらしい雰囲気?を出すために撮影スタッフの人たちが、見たことのない器材を使って「スモーク」を出したりしていました。

修行中の「弘智法印」に扮した役の方が、たまたま同じ真言宗智山派の知り合いの方(お坊さん)だったりして、なかなか楽しく見学をさせてもらいました。弘智法印役に抜擢されたこの方は、何となく頼まれてこの撮影のためだけにはるばる東京から来られたとのこと。しかも「修行僧のMy衣装」を持参して来ていました。

いつもテレビなどの撮影現場を見ていて思うのは「こういう番組制作の仕事って好きじゃないとやれないなー。」ということです。時間はかかるし、手間はかかるし、強行軍だし、ほんと大変な仕事だと思います。今回の「一時間番組」の中で、西生寺での撮影のシーンがどれくらい出てくるかわかりませんが、西生寺の撮影だけでも東京から日帰りの往復を含めると「丸一日」を費やしています。


◆番組のご案内
【BS−TBSテレビ】:1月3日(月)午後2時〜3時
【番組名】:幻の古浄瑠璃 東京見参!!〜越後国・柏崎弘知法印御伝記〜

※画像左…園子ママセレクト「今年のウサギの置き物」
園子ママは毎年、庫裏の玄関に置く「新年の干支の置き物 」を
新しく買い求めます。今年の置き物は渋いウサギの焼き物でした。
どことなく西生寺のうさぎどんに似ています(どったん系っぽい)。

※画像右…撮影のため「スモーク」を焚く番組制作のスタッフ
番組放送の1月3日は檀家さんが集まり「年始会」が開かれる日
です。ちょうど良いタイミングで檀家の皆さまにも案内ができます。
午後1時すぎには年始会は終わるので、あとかたづけを後にして
番組を見たいと思います。



★追伸【1月7日(金)】
楽しみにしていた、1月3日放送の「越後猿八座」の番組は本当に良い番組でした。西生寺のロケシーンはほんの少しでしたが、一時間にぎっしりと良くまとめられた、内容の濃さには驚きました(最近軽い番組が多いので)。当日の「年始会」では、集まった檀家さんたちにさっそく宣伝をしたのですが、檀家さんで「ブルボン」に勤めている方がいて、「社長命令」で「社員は全員この番組を見ること!」とお達しがあったそうです。そういえばこの番組のスポンサーは「ブルボン」でした。ブルボンの本社や工場は「越後國柏崎・弘知法印御伝記」の舞台となった、柏崎市にあります。


2010/12/29(水)
★弘願寺「納めのお不動さま」











12月28日、新潟市内の中心部にある、兼務をしているお寺「弘願寺(こうがんじ)」で今年最後の「護摩供法要(ごまくほうよう)」を行いました。

毎月弘願寺では、お不動さまの縁日である28日の午後1時から、住職の「法話」や「護摩供法要」を行っています。宗派を問わず昔からの信者さん、新規の方、たまたま立ち寄った方など、毎月多くの方にお参りをいただいております。一年を締めくくる「納めのお不動さま」となったこの日は、少し特別な思いでのぞみました。

この一年を無事に過ごせた事や、暑い日も雨の日も毎月お参りに来てくださった信者さんたちへの感謝の気持ち。常連の高齢の信者さんの幾人かが、病気や足腰が弱ってしまってついに今年は一度もお参りに来られず、顔を見れなかった寂しい思い。以前ふらっと立ち寄ってお参りをしていかれた若い女性の方が「28日が日曜日で仕事が休みなのでやっと来られました。」と再びお参りに来てくれたうれしさ。

信者さんから声が上がり、「御詠歌」の師範である住職が先生となって「弘願寺御詠歌教室」がスタートしたことなどなど、全員でお経を唱えながら、次第に大きな炎となって天井に伸びてゆく、住職の焚く爐護摩の火爐鮓つめていると、この一年間の弘願寺での出来事がいろいろと頭に浮かんでくるのでした。

お茶で歓談のあと、「元気に年とろうね。」「良いお年を。」と年の瀬ならではのあいさつを互いに交わし合って、信者さんたちは家路について行きました。この日は新潟日報の記者さんが「アポなし」で取材に訪れ、お大師さまの立像や、法要の様子を熱心にカメラにおさめて行きました。(まだ未定だけれど、記事になるのは夕刊だそうです。。)

ほんとうについていけないくらい「あっという間の一年」でしたが(※私が年輩の信者さんたちの前でこう言うと、いっせいに「歳とるとそんなもんじゃないわよ!」と言われました…)、最後に毎日「寺務所」で受付の仕事をしていて、今年一番印象に残った会話を紹介しましょう。地元「寺泊小学校」の課外授業で西生寺にやって来た子供たち(中学年の男の子ふたり)の会話です。

受付寺務所の「お守りコーナー」にて男の子Aがお守りをいじくっていると、男の子Bがそばにきて

男の子B:「(お守りに)さわっちゃダメだよ。」
男の子A:「誰だっていいやつを選ぶためにさわるんだよ。そして選んで買うんだよ。」
男の子B:「っていうか、おまえ買わねーじゃん。」
男の子A:「うるせーよ。」

「買わないのにさわっちゃダメでしょ。」と子供のころ、スーパーで幾度となく親に言われたことを思い出しました。

以上、今年最後の「おてら通信」でした。今年も一年間「おてら通信」を読んでくださって本当にありがとうございました。
それではみなさん良いお年を!


※画像左…ご本尊「不動明王」を前にお護摩を焚く様子
弘願寺「ご縁日護摩供法要」は、どなたでも自由に参加できます。
次の1月28日は新年初ということで「初不動さま」です。
どうぞお参りくださいませ。

※画像右…弘願寺屋上「弘法大師」の立像
弘願寺のシンボル的存在となっている、屋上に立つ大きな大きな
「お大師さまの立像」です。繁華街の古町地区を屋上から見下ろす
ように見守り続けてウン十年、「ニイガタの不思議スポット」として不動
の地位を確立。不思議そうに上をあおぎ見るサラリーマン、カップル、
親子連れ、学生さんなどなど、幅広く市民の関心をさらっています。
                 (ケータイの被写体としても大人気)

◆弘願寺護摩供法要
【日時】 :毎月28日午後1時より(地下本堂にて)
【内容】 :法話、「智山勤行式」読経、護摩供法要など。
※午前11時より「御詠歌教室(初級)」をしています。

◆弘願寺「お護摩のご利益」とは?
ご本尊不動明王の「功徳力」とお護摩の「加持力」と自分自身の拝む「念力」で「煩悩」を焼き尽くします。
(犒邂讚爐波冉困鮠討尽くしてもらっている私ですが、次々と煩悩が生まれるのでキリがありません…。)


2010/12/19(日)
★旅話 奈良吉野山金峯山寺「本尊御開帳」











前回8日の「おてら通信」で「吉野山の蔵王権現さまの御開帳に行こう!」と思い立った我々は予定通り、雷、突風、みぞれの中を「北陸道」を南下して関西入り、古墳群が点在する「明日香村」を通り、地場産業となっている中小の「製薬工場」を横目に、ノンストップで延々8時間をかけてお昼前に「吉野山」に無事に到着しました。

今回の「おてら通信」は、吉野山の御開帳の話やお伊勢参りの話を「旅話 銑」に分けて紹介します。それでは続けてどうぞ。。

吉野山を訪れた日は平日でしたが御開帳最終日の「御閉帳」とあり、午前中から続々と参拝者が訪れていました。駐車場の車のナンバーを見ると地元奈良、名古屋、尾張小牧、和歌山、滋賀、三重などやはり関西ナンバーが多く牘鵑まで来た感じ爐いっきに旅情をかきたててくれます。

(※旅行中、我ら「長岡ナンバー」には一度も遭遇しませんでした。「新潟ナンバー」は京都でたった一度だけ見かけました。なんでも新潟県は沖縄県を除くと「日本一県外に旅行をしない県民」なのだそうですョ。)

境内は、高く壇を組んで「お護摩」を炊く準備がしてあり、周りには願い事が書かれた「護摩木」が山と積まれていました。この護摩木は拝観料(1000円)を払うともらえてその場で書いて納めます。記念品と言うのか、金峯寺のロゴ入りの「エコバック」と「護摩木のストラップ」ももらいました。

山の上にある「金峯山寺」周辺は想像以上の寒さで、日中なのにぐんぐんと気温が下がり、北の新潟から来たにもかかわらず、2時間くらい山内をぶらぶらとしている間に寒くてふるえてしまいました(毛布を腰に巻いて歩いている人の姿もちらほら)。

それとご本尊「蔵王権現」さまの御開帳は一年に一度と書きましたが違いました。御開帳は6年ぶりで、次回の御開帳は未定なのだそうです。次の御開帳が未定とは少しおどろきでした。12年に一度、50年に一度、住職一代で一度など、御開帳をする秘仏のご本尊さまって、開帳する年が決まっているものとばかり思っていましたので。。。

※画像左…蔵王堂(本堂)

※画像右…吉野山山頂からの風景
白っぽい木は全部犹該爐任后


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