『入口』へ戻る
 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

  弘智法印即身仏霊堂

1.日本最古の即身仏
2.生い立ちから御入定、現在まで
3.ご利益と信仰(現在)
4.即身仏「Q&A」
5.学術調査
6.全国の即身仏

 

1.日本最古の即身仏
―――――――――――――――――――――――――――――

●唯一の鎌倉時代の即身仏
弘智法印即身仏現在全国に約24体の即身仏がお祀りされています。そのほとんどの即身仏が江戸時代以降に修行された行者さんのものです(約200年〜300年前)。
唯一、弘智法印即身仏だけが江戸時代からさらに300年さかのぼった鎌倉時代の即身仏で、今から約640年前のものとされています。

●古来より著書に登場
ですから、古来よりすでにその名が知れ渡っていた弘智法印即身仏の噂を聞きつけ、多くの文人が西生寺の即身仏を訪ねており、その著述にはしばしば弘智法印即身仏が登場しました。
有名なものとしては松尾芭蕉の弟子である曾良の「曾良旅日記」、雪国の生活を綴って江戸時代にベストセラーとなった、鈴木牧之の「北越雪譜」などです

個人的に興味深いのは現在の弘智堂内での即身仏の御開帳スタイルがなんと当時の著書にでてくる御開帳スタイルとほとんど変わっていないということです。(拝観料をいただくところまで同じなのです…)

●人形浄瑠璃「弘知法印御伝記」New!
今から300年前の江戸時代後期、日本橋の人形浄瑠璃の一座が当山の弘智法印即身仏」をモデルとした、人形浄瑠璃「-越後国柏崎-弘知法印御伝記」を上演しました。当時、この浄瑠璃の台本が「本」にもなり刊行されたそうですが、その後一度も「弘知法印御伝記」は上演されること無く、本も現存せぬままに幻の御伝記と言われてきました。
長い間その存在すら忘れられていた「本(台本)」が昭和43年、
なんとイギリスの大英博物館で大学教授の鳥越文蔵先生(現早稲田大学名誉教授)の手により250年ぶりに偶然発見され、帰国後現代語に訳され「復刻本」を出版されました。

●幻の「弘知法印御伝記」300年ぶりの復活上演New!
平成20年1月、新潟市在住で「文楽義太夫」として活躍をされている方が、この幻の「弘智法印御伝記」の存在を知り、復刻本を読むと「内容も面白いし、ふるさと新潟で、この「弘知法印御伝記」を300年振りに復活上演させよう!」と決意をされました。
賛同する文楽仲間とともに「越後猿八座」を立ち上げ、人形師などの団員は新潟在中の初心者を募集。一年半年にも及ぶ熱心な稽古を重ね、2009年(平成21年6月)、ゆかりの地「柏崎」で念願の「旗揚げ公演」を達成しました。
さらに平成22年10月30日・31日には、東京有楽町「浜離宮朝日ホール」で「凱旋上演」ともいえる念願の東京公演が行われました。
以後も新潟市内など、県内各所で「弘智法印御伝記」の復活上演を中心に活動中です。
「越後猿八座」のみなさんは「弘智法印即身仏」を訪ねて、当山にも度々お参りをいただいております。


2.生い立ちから御入定、現在まで
―――――――――――――――――――――――――――――
≪「弘智法印即身仏御縁起」より≫

●千葉県匝瑳市大浦の「鈴木家」に生まれる

◆名は「音松」
現存する日本最古の即身仏(640年前、鎌倉時代)である弘智法印は、
鎌倉時代(西暦1290年代)に、千葉県八日市場市(現在の匝瑳市)大浦の鈴木五郎左ェ門の次男「音松(おとまつ)」として生まれました。

◆幼少の頃「出家」する
音松は幼少のころに、同じ大浦村にある「蓮花寺(れんげじ)」に入信し、出家して僧となります。なぜ出家したのかは確定的なことは分かっていませんが、この頃よりすでに表れていた偉人の資質を父親が見抜き、父に心遣いで出家させたとも言われています。

寺に入った弘智さまは、得度をして名前が「音松」から「真諦(しんだい)」となりました。以後ずっと「真諦」を名乗っています。「弘智」となるのは、西生寺「奥の院」で即身仏と成るための修行を始めた頃からです。

●ふるさと「蓮花寺」住職〜「仏教伝道」の決意

◆「蓮花寺」の住職時代
弘智さまは、50代はじめで蓮花寺を去るまでの、相当の年月を蓮花寺の住職として務めています。農家出身の次男坊の身にして、一ケ寺の住職になることは、当時としては大変な出世だったといえるのだそうです。

◆「蓮花寺」を去る
長く住職を務めていた蓮花寺を去る時が来ます。なぜか?それは「蓮花寺に伝わる話」によると、「大雨でたびたび村と寺との道が遮断されてしまう事」などを解消するため、弘智さまはとてつもなくスケールのでかい計画を考えたのだそうです。それは「蓮花寺に大山門を創設し、山門から集落のある向かいの山まで、約1キロにわたる「大陸橋」を架す」という計画でした。しかし、檀徒の猛反対にあいます(「和尚が狂った。」などと言われたとか…)。

◆「仏教伝道」の決意
その後もこの一件が原因となり、各種の面で檀徒と衝突をきたしたので、弘智さまは「真の伝導のためには、かかる僻地に住するよりは、中央へ出て仏教護持の大運動を興さん」と考えたとされています。そんな理由で50歳もすでに過ぎた年輩にして、長年住み慣れた土地を去って「伝導の旅」に立つ弘智さまなのでした。

●江戸武蔵野(四ツ谷)「蓮乗院」建立し住職に

◆江戸へ
ふるさとを後にした弘智さまはまず、江戸の武蔵野にとどまり、民衆に仏教の教えを説きました。さらに同地にお寺を建立し「蓮乗院(れんじょういん)」と名付け、弘智さま自身も同寺の住職となります。自らが建立した寺の住職として今度こそ、余生を豊かに落ち着いて過ごすのかと思いきや、5〜6年でここでもまた住職の地位を捨て寺を去るのでした。

●「伝導の旅」で諸国を巡る(7年間)
(年齢:50代後半〜60代前半)

◆旅のルート
弘智さまは以後7年間にわたり、あてもない全国仏教伝道の旅を続けます。「旅のルート」ははっきりとした記録がありません。
ただ、2つの説があります。
≪ルートその1≫
江戸→東北地方→北海道→信州→高野山→関西地方→四国(遍路)→九州→日本海→(北上)→越後「西生寺」
≪ルートその2≫
江戸→高野山→関西地方→四国(遍路)→九州→信州→東北地方→北海道→日本海→(南下)→越後「西生寺」

◆各地をまわり33ケ寺を建立
信州(長野県)では小谷村、坂北村などに長くとどまったようで、現在でも弘智さまの御信者さんが多くいらっしゃる土地です。
また、弘智さまは、東北地方・北海道を中心に33ケ寺を建立したとされています。現存している弘智さまが創設した寺院は3ケ寺あります。

前記の東京都武蔵野市四ツ谷の「蓮乗院」と、青森県北津軽郡一浦村の「阿仏坊」、北海道松前町の「蓮花庵」です。それに千葉県匝瑳市の「蓮華寺」と、弘智さまのご実家である鈴木家も健在です。

2009年に「越後猿八座」により、300年ぶりに見事復活上演された「弘知法印御伝記」では、法力により魔物退治や死んだ馬から両親を出現させたりしている弘智さまですが、「縁起」にもそれ系エピソードとして「四国に渡航し、次に九州に渡るべく舟で進むと、海中より鮫魚大群が襲って舟がまさに沈まんとするのを、修法をもって退散せしめた。」という一文があります。

◆高齢でも旅を続ける
縁起には「60歳をこえた老体を静かに休めることなく、全国伝導の漂いに旅に出られたことは、せかせかとしてその日その日に追われている迷える我々を、憐れみ救わんとの人慈人悲の御心しかなく、御自身の肉体苦は眼中になかったものと思われる、まさに命を捨てての教化伝導であった」とあります。

●即身仏となる決心をする

◆「高野山」での修行
弘智さまは全国伝導の旅のなかで真言宗の宗祖「弘法大師」さまの入滅の地「高野山」に登り、そこでしばらくの間修行をしています。高野山では弘法大師さまの遺された多くの経や書物を学び、さらに深い教えを知ることができました。高野山で修行中には奈良や京都にも訪れています。

◆決心をして高野山を去る
この当時は「末法」(※弥勒信仰による末法思想)の始まるころにあたり、種々の世の乱れが弘智さまの目に映り、また世間のみならず仏教界でも(高野山でさえ)目に余るものがあり、弘智さまは長く高野山にとどまる事はなかったようです。
「吸収しうるものはさっさと学び、大いなる決心を持って高野山を去った」とあります。おおいなる決心とは自身の肉体を残し、乱世の衆生を教化すること、つまり「即身仏」となる決心をされたのです。

●即身仏となる修行の地を求めて…
(年齢:60代)
◆越後(新潟県)へ入る
民衆に仏教の教えを説くために見知らぬ土地を訪ね、その地にとどまり、あるいは寺院を創設する。定住することなく去り、新たな土地に止まっては仏教の教えを説き、説いては去る…。このような伝導の旅を7年間もひたすらに繰り返してきた弘智さまですが、いよいよ「即身仏の実現のため」に入寂する地を訪ねて最後の旅に出られました。
日本海に沿ってすすみ、越後へとたどり着きます。越後へ来た時の弘智さまは、悠々と馬の背にゆられ、相当の量の書籍を積んでいたといわれています。

●西生寺と弘智さまの出会い

◆西生寺「奥の院」を木喰行の地と決める
越後の弥彦山「猿ケ馬場(地名)」の峠を越えた時、仏法僧鳥の鳴き声を聞いた弘智さまは、その声をたよりに山を分け入ったところ、現在の奥の院のある「岩坂(地名)」にたどりついたのでした。なんとなしに来てみたところが、滝はあるし、静寂な場所だし、即身仏と成るための修行「木喰行」を行うには最高の地であることを知るのです。

◆「弘智」と名乗る
こうして弘智さまは、弥彦山山中の西生寺境内(飛び地)であったこの場所に、小さな修行小屋を建て、それを「養智院(ようちいん)」と名付け、自らの名も「真諦(しんだい)より「弘智」としました。


●奥の院での厳しい3千日の修行

◆木喰行一字一石経
こうして弘智さまの三千日にも及ぶ、厳しい「木喰行(もくじきぎょう)」が始まりました。「穀十穀断ち(※1)」や「一字一石経(※2)」、「座禅」、一日1万800反の「礼拝行」などの修行を行いました。

※1…米などの穀類を断ち、その代わりに野梨や野いちご、かやの実、熊笹の葉の芯などを食べる事によって身体を浄化し、腐りにくい体質に変える修行法です。
※2…「般若心経」の経文字を、一字ずつ小石に書き入れたものを、弥彦山や村中に埋めました。高野山修行中に思い付いた「弘智さま独特の行」といわれています。

●「即身仏」となる(70余歳で入定)

◆「入定」と「遺言」
3,000日間続けられた、即身仏となるための厳しい修行を成満された弘智さまは、1363年(貞治2年)10月2日、座禅を組んだままの御姿で御入定されました。弘智さまは、
「われ、終焉の後は必ず遺身を埋葬する事なかれ、このままにして弥勒下生の暁を待つ」と固く決意をのこして入滅されました。

「縁起」には「宗教家としての救世の信念、弥勒菩薩が世に下り、末法の乱世を救えるまで、我が身を残してこの世を救わんとの信念、実に偉大なものである。」と記されています。

◆弘智さま「辞世の句」
弘智さまは、御入定するにあたり「辞世の句」を詠まれました。

「岩坂の主(あるじ)は誰ぞと人問わば 墨絵に書きし松風の音」

「岩坂」とは修行をされていた「養智院(奥の院)」のある場所の地名です。「墨絵」に描かれた「風にゆれる松」の「その松風の音」が「岩坂のあるじ」と言うのです。墨絵に描かれた「松」は見えても、その「風の音」までを実際に見ることはできません。
あるようで、ない。ないようで、ある。いるようで、いない。いないようで、いる。
全てのものは移り変わり、常に同じ状態のものはない。
仏教でいうところの「諸行無常」を表しているようにも思えます。

●入定されてから今日まで

◆250年間「奥の院」に御安置
即身仏となられた「弘智さまの御身体」は、遺言どおり埋葬されることはなく、その後250年もの期間を、修行をした地である「奥の院」の小さなお堂に御安置されていました。

◆数々の危機を乗り越える
この間、戦国時代(豊臣秀吉の時代)には、奴兵に槍(ヤリ)で胸を突かれるアクシデント(※3)にみまわれ、この時の衝撃によって弘智法印即身仏の御姿が少し前かがみになったとされています。


この事件がきっかけとなり、弘智法印即身仏は現在の弘智堂のある場所(西生寺境内)に移されました。


全ての即身仏にとって一番の大きな危機となったいわゆる「出開帳」を、弘智法印即身仏も2度行ったと記録されています。また、行き先は江戸のほかにも、佐渡ヶ島にも行ったとも言われています。
明治維新による廃仏毀釈で寺が衰退してしまった時期もありました。このように即身仏となった後も、数々の波乱の時代を乗り越えて現在に至ります。

※3…「死んでいるのに座っているのは、キツネかタヌキが化けているに違いない!」と弘智法印の胸を槍で一突きしたこの奴兵は、後に「真の仏を突いてしまった」と自害しました。本人の遺言により「奴の懺悔の首」として長い間即身仏のそばに置かれていましたが、今は宝物館に展示されています。

◆220年前(現在の)「弘智法印即身仏霊堂」建立
江戸時代の後期、今からおよそ220年前に、西生寺境内のお堂に御安置されていた「弘智法印即身仏」をお祀りするための「霊堂」が新たに建立されました。今我々の言う「弘智堂」です。
このようにして今日に至るまで600年以上もの長い年月を、代々の西生寺住職や地元野積村の人々、全国の御信者達など、多くの人々により大切に守り継がれてきました。

●良寛さまと弘智法印即身仏の出会い

◆江戸時代(1803年)良寛さまは西生寺に「仮住まい」
西生寺境内に「弘智法印即身仏霊堂」が建立され、弘智さまが霊堂に御安置をされて間もなくの頃、国上山「五合庵」で5年ほど暮らしていた良寛さまは、45歳の時に一時的に「五合庵」を出てゆかなければならなくなり、分水や寺泊の寺院を転々とする「仮住まい」の生活が2年ほど続くことになります。

この間の享和3年(1803年)、良寛さま46歳の時に「西生寺」で約半年ほど「仮住まい」をされました。この西生寺滞在中に良寛さまはたびたび「弘智法印即身仏」をお参りしました。弘智法印即身仏の遺した「辞世の句」に感銘を受けた良寛さまは「題 弘智法印像」として「漢詩」を詠まれました。

※良寛さまの詠んだ「漢詩」は弘智堂の前に案内(看板)が出ています。
※良寛さまについては「拝観のご案内」のページ(第3章)で特集しています。





※新しく建立されたぴかぴかの
『弘智法印堂』

●蓮花寺参拝団
(おてら通信より 2005/11/19)
弘智様の故里、千葉県匝瑳(そうさ)市から先日「蓮花寺さま参拝団」が西生寺にやって来ました。去年、蓮花寺にある『弘智法印堂』を新しく建て替え、そこにお奉りされてあった『弘智法印像』を修復した記念の団参旅行です。蓮花寺の若いご住職さまを中心に総勢36名様(もちろん実家の鈴木さんも)。

普段も、観光バスや個人の参拝客など様々なお客様をお迎えしている私たち。しかしこのように西生寺メイン弘智法印即身仏メインの団参はめったにない。たいていが新潟県内の観光地を巡るツアーの一部に西生寺で即身仏拝観を組み込んでいるパターンがほとんど。だからガラにもなく出迎えるにあたり、非常に緊張してしまいました。わざわざ遠く千葉から西生寺直行で来てくれるのだから「弘智様を拝観して良かった。」と心から思っていただきたい。

ちょうど見頃を迎えたモミジの紅葉が、錦のような華やかな彩りをそえる境内を、住職と長老による力のこもった案内がさっそく始まりました。

各所のご案内、即身仏の御開帳、宝物館、庫裏でお茶のご接待、展望台で日本海や佐渡を眺め、記念写真や弘智様のお護符を買い求めたりのフルコース。

そうこうしているうちに、あっという間に出発時間が。長老、母、住職、私と西生寺フルキャストがぱたぱたと手を振ってお見送りをするなか、今夜の宿のある『岩室温泉』を目指してお帰りになりました。

前日には湯沢で初雪が降り、この数日間で一気に初冬を感じさせる寒くしぐれるどんよりとした気候の中、早朝より千葉を出発し、弘智様を目指してダイレクトに来て頂いた、蓮花寺さまご一行の1泊2日の旅。本当に有難うございました。

 



※色を塗り直すなどの修復が施された
『弘智法印像』

※上の2枚の写真は蓮花寺ご住職さまから頂いたものです。特に「弘智法印像」を初めて拝見したときの驚きは忘れられません。私にとって即身仏のお姿ではない生前の弘智様という概念がまったくなかったからです。


3.ご利益と信仰(現在)

―――――――――――――――――――――――――――――

●弘智講
毎年、弘智法印が入定された10月2日には、弘智法印即身仏の大祭法要の「弘智講(こうちこう)」が行われます。
この日は朝から200〜300人もの檀信徒の方達のお参りがあり、施餓鬼法要や法話にお斉(昼食)、土田芸能社による昔ながらの演芸で一日中賑わいます。

●12年に一度の「御衣替え」とその不思議
また12年に1度(子年)、西生寺ではこの弘智法印即身仏の身に着けている「衣」を取り替える儀式が行われます。これは1363年10月2日に入定された時の、弘智様による「御遺言」によるもので、以来数百年間欠かすことなく「子年」に衣替えをしてきました。
当日は弘智堂を閉め切り、精進をして身を清めた住職と施主のみでひっそりと執り行われます。
不思議な事にこの「御衣替えの日」は、昔からどんなに晴れていてもその時になると雲行きが怪しくなり、雷鳴とともに雨が降り出して大荒れの天気になるといわれており、実際私も嫁いでから2度、この御衣替えに逢いましたが、2回ともいわれ通りのあまりにも出来すぎた展開になり驚きました。
(あらためて弘智法印即身仏の霊験の凄さを、感じずにはいられませんでしたが、西生寺暦50年?の村のおばあちゃんによると「少なくとも4回連続、急に空が暗くなって雨が降り出す荒れた天気になった」そうです。)

住職に理由を訊くと、「弘智様が御身体に触れられるのをあまり好ましく思わないのではないか」との事です。よほど「衣替えが苦手」とお見うけする弘智さまですが「12年に一度衣替えをしなさい」と遺言を残したのは弘智さまご本人なのですよね。。。衣替えの「法要儀式」を執り行う住職はいつも「弘智さま、もう少し辛抱してください」と念じながら御衣を替えるそうです。

身内でひっそりと行われる「衣替えの日」は、毎年10月2日の弘智様の命日に行われる、大勢の檀信徒が集まって法要や芸能を楽しむ「弘智講」とは全く違う日です。静かな日常のなかで、私たち西生寺の家族や身内とも言える施主だけに、12年に一度与えられた「特別な日」という思いを強く感じます。全てが終わり「なおらい」の席上、粛々とした雰囲気の中で各自思い思いに弘智さまを語り、思い思いに弘智さまに浸ることの出来る、ほんとうに素晴らしい一日です。

 

 

●変わらないスタイル「御衣入りの御護符」
This is the 御護符.弘智法印即身仏が12年間着ていた御衣は弘智さまの分身とされ、昔から大変御利益があるとされてきました。西生寺では、この12年間即身仏が身に着けていた御衣を、ひとりでも多くの信者さんが身に着けられるようにと、小さく切り「御護符」としたものが、数百年もの昔より当時のままのスタイルで現在まで伝わっています。
越後新潟の長くて厳しい冬の間、お寺の一室でこたつに入りながら、ひとつひとつ丁寧に完全に手づくりをしています。

●弘智法印即身仏と供に
この御護符は、「そばにいつも弘智法印さまがいて全ての災いから身を守ってくれるお守り」として常に身に着けておくものです。「御衣」の御利益はいろいろありまが、普段は全ての災いから身を守ってくれる身替わりとして肌身離さず身につけておきます。安産のお守りとしても定着しています。

また、御信者の方のなかには、御護符の中に入っている細かい御衣を飲む事を信仰のひとつにしている方もいらっしゃいます。(弘智さまが自分の体の中に入る事で病気や悩みから救われるという信仰です)
もちろん私も、西生寺の家族も 常に身に着け手放した事はありません。(私に関して言えばもう手放せない存在です。どこにいても身近に弘智様を感じて安堵し、時に私を励まし、勇気づけてくれます)

この御護符は 現在も大勢の御信者の方達によって守られている弘智法印即身仏と供に、時代の変化にも決して変わることなく大切に受け継がれて来たもののひとつです。


4.即身仏「Q&A」
―――――――――――――――――――――――――――――

●「ミイラ」と「即身仏」の違いは?
◆実はよく訊かれる質問です

ジプトなどで有名なミイラ。日本国内でも中尊寺金色堂の奥州藤原三代のミイラがよく知られていますね。「即身仏」と言ってもどんなものなのかわからない人でも「ミイラ仏」と言うとほとんどの方がお分かりいただくようです。
このように一般的には「ミイラ仏」といわれる即身仏ですが、厳密に言うと双方には大きな違いがあるのです。
では「ミイラ」と「即身仏」の違いとはいったい何でしょうか?

ミイラとは「病死や事故死などで普通に死んだ後、腐らないようにする為に、臓器を取り出したり薬草を詰めたりと、後からなんらかの手を加えて作り上げられたもの」、もしくは「死後、その土地の気候や風土で、白骨化されずに自然にミイラ化されたもの」などを一般にミイラと言います。

一方、即身仏とは行者が「信仰のもとに、自らの意思で、自らが即身仏になる為の厳しい修行を積んで成った仏」の事です。

ですから自らの強い意志で、想像を絶する厳しい行を成満して即身仏になり、その後も時空を越えて今なお自らのなま身の体で我々に無言の説法をつづける即身仏の力強いお姿を拝見すると、自然と手が合わさり厳粛な気持にさせられるのです。
(ちなみに、現在の法律では即身仏になることは禁止されています。)




●弘智法印さまをお参りする時に唱える「ご宝号」は?
◆シンプルイズベスト。
もし西生寺の弘智法印即身仏を拝観して、思わず自然に手が合わさった場合に備えて、誰でも簡単にお唱えできるご宝号をお教えしましょう。

「南無弘智大士(なむこうちだいし)」

本当に簡単ですね。このご宝号を3回くらいはお唱えしましょう。もちろん、ひたすら無言で強力な念力を送るのもよし、静かに即身仏と語らうもよしです。

●「宝物堂」中央にある「即身仏の木像」、あれは何ですか?
◆江戸時代に作られた「ダミー」です。
江戸時代に作られた「弘智さまそっくりさん」です。実はとても大きな任務を果たした木像でもあります。

それというのも、江戸時代に流行っていていた「出開帳」に、本物の即身仏の「身替わり」として「出開帳」させるために、そっくりに製作されたモノなのです。本物の弘智法印即身仏は隠して、この木像の「弘智さまそっくりさん」を出開帳させたことにより、弘智さまの御身体は守られたのです。
(「出開帳」により、日本に当時存在したかなりの即身仏が紛失したり、傷んでしまったりしたそうです。)

◆「身替わりの木像」のちょっと不思議なおはなし
「弘智法印身替わりの木像 」は開眼してありますので、弘智さまの魂が入っています。宝物堂を見学する際にはどうぞお参りをしてください。
そうそう、この「身替わりの木像」にはちょっと不思議なエピソードがあります。
じつは「宝物堂」が完成する前まで、「木像」は客殿裏の部屋に置かれ、かなりの年月を人目につくことのない場所でひっそりと過ごしていたそうです。

「身替わりの木像」用に作られた新しい御厨子のある「宝物堂」にいよいよ木像を移すという日の朝、雪の積もった境内に「勤行」に出た住職が、客殿から宝物堂までの間の雪道に、点々と「片脚だけの人の足跡」がついているのを見つけたそうです。
「片脚」というのが不思議だと思った瞬間に、ピン!ときたそうです。
それは客殿の「身替わりの木像」の脚が、片方壊れていたことを思い出したからです。
住職は「ひと目のつかない暗い部屋に長い間置かれていた弘智さまの魂が、よろこびのあまり、体より先に宝物堂へと移ったのではないか。」と話してくれました。

 

5.学術調査
―――――――――――――――――――――――――――――

 血 液 型
AB型
弘智堂の守り神?
 身   長
約170センチ
 病   歴
なし
 死亡年齢
60歳前後
 死亡年代
鎌倉時代

※弘智堂内天井画
 「八方睨みの猫」

※端座したままの御姿で土中にて入定


●日本初の学術調査
で「ニセモノ疑惑」を払拭
昭和34年、文部省後援のもとに日本で初めてとなる即身仏の学術調査が行われました。全国の即身仏に先駆けて、その第1号が弘智法印即身仏でした。
実はそれまで一度も科学的立場からの検証をされていなかった即身仏は、昔から「ニセモノ疑惑」のうわさ話もつきなかったのです。また信仰とは別に、長い間手付かずだった即身仏の保存状態にも問題がありました。そういった事も含め、この学術調査はとても大きな意味がありました。


▼▲


同年7月23日から約半年間にわたり、早稲田大学教授の安藤更生氏、東京大学教授の鈴木尚氏、新潟大学教授の山内峻呉氏、ほか多数の学者による調査チームが組まれ、歴史学、医科学、生理学的な立場からの研究がなされました。
その結果、弘智法印即身仏は歴史学的にも正しく(鎌倉時代後期に入定)、血液型はAB型で生前の病根はなく、死亡年齢は60歳前後、下肢骨の発達が良く、諸国をくまなく行脚された方であり、容貌は実に立派で、骨や皮膚のしわの様子からすると、座ったまま入定された修行僧であると権断されました。

この学術調査の際に撮られたレントゲン写真などの資料は当山の宝物館に展示されております。また、境内にはこの時の調査をもとに造られた弘智法印の修行時代のお姿の銅像が建立されています。


6.全国の即身仏
―――――――――――――――――――――――――――――

舜義上人 妙法寺 茨城県西茨城郡岩瀬町本郷1
宥貞法印 貫秀寺 福島県石川郡浅川町小貫字宿ノ内

萬蔵
(金剛院佑観)

萬蔵稲荷神社 宮城県白石市小原字馬頭山6
明海上人 (個人蔵)  山形県米沢市
光明海上人 蔵高院 山形県西置賜郡白鷹町大字黒鴨
真如海上人 大日坊 山形県東田川郡朝日村大綱1
鉄門海上人 注連寺 山形県東田川郡朝日村大綱753掛
本明海上人 本明寺 山形県東田川郡朝日村大字東岩字内野388
鉄竜海上人 南岳寺 山形県鶴岡市砂田町3−6
忠海上人
円明海上人
海向寺 山形県酒田市日吉町2−7−12
仏海上人 観音寺 新潟県村上市肴町
全海法師 観音寺 新潟県東蒲原郡鹿瀬町大字豊実
秀快上人 真珠院 新潟県柏崎市大字西長鳥甲502
心相行順大行者 新栄山山頂 長野県下伊那郡阿南町新野
妙心法師 横蔵寺 岐阜県
弾誓上人 阿弥陀寺 京都市左京区大原古知平町
※参考文献 『日本のミイラ仏をたずねて』著 土方正志 (晶文社)

 

 


〒940-2501 新潟県長岡市寺泊野積8996
真言宗 智山派 海雲山 西生寺
TEL 0258-75-3441
FAX 0258-75-2735
E-mail: mail@saisyouji.jp