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●千葉県匝瑳市大浦の「鈴木家」に生まれる
◆名は「音松」
現存する日本最古の即身仏(640年前、鎌倉時代)である弘智法印は、
鎌倉時代(西暦1290年代)に、千葉県八日市場市(現在の匝瑳市)大浦の鈴木五郎左ェ門の次男「音松(おとまつ)」として生まれました。
◆幼少の頃「出家」する
音松は幼少のころに、同じ大浦村にある「蓮花寺(れんげじ)」に入信し、出家して僧となります。なぜ出家したのかは確定的なことは分かっていませんが、この頃よりすでに表れていた偉人の資質を父親が見抜き、父に心遣いで出家させたとも言われています。
寺に入った弘智さまは、得度をして名前が「音松」から「真諦(しんだい)」となりました。以後ずっと「真諦」を名乗っています。「弘智」となるのは、西生寺「奥の院」で即身仏と成るための修行を始めた頃からです。
●ふるさと「蓮華寺」住職〜「仏教伝道」の決意
◆「蓮花寺」の住職時代
弘智さまは、50代はじめで蓮花寺を去るまでの、相当の年月を蓮花寺の住職として務めています。農家出身の次男坊の身にして、一ケ寺の住職になることは、当時としては大変な出世だったといえるのだそうです。
◆「蓮花寺」を去る
長く住職を務めていた蓮花寺を去る時が来ます。なぜか?それは「蓮花寺に伝わる話」によると、「大雨でたびたび村と寺との道が遮断されてしまう事」などを解消するため、弘智さまはとてつもなくスケールのでかい計画を考えたのだそうです。それは「蓮花寺に大山門を創設し、山門から集落のある向かいの山まで、約1キロにわたる「大陸橋」を架す」という計画でした。しかし、檀徒の猛反対にあいます(「和尚が狂った。」などと言われたとか…)。
◆「仏教伝道」の決意
その後もこの一件が原因となり、各種の面で檀徒と衝突をきたしたので、弘智さまは「真の伝導のためには、かかる僻地に住するよりは、中央へ出て仏教護持の大運動を興さん」と考えたとされています。そんな理由で50歳もすでに過ぎた年輩にして、長年住み慣れた土地を去って「伝導の旅」に立つ弘智さまなのでした。
●江戸武蔵野(四ツ谷)「蓮乗院」建立し住職に
◆江戸へ
ふるさとを後にした弘智さまはまず、江戸の武蔵野にとどまり、民衆に仏教の教えを説きました。さらに同地にお寺を建立し「蓮乗院(れんじょういん)」と名付け、弘智さま自身も同寺の住職となります。自らが建立した寺の住職として今度こそ、余生を豊かに落ち着いて過ごすのかと思いきや、5〜6年でここでもまた住職の地位を捨て寺を去るのでした。
●「伝導の旅」で諸国を巡る(7年間)
(年齢:50代後半〜60代前半)
◆旅のルート
弘智さまは以後7年間にわたり、あてもない全国仏教伝道の旅を続けます。「旅のルート」ははっきりとした記録がありません。
ただ、2つの説があります。
≪ルートその1≫
江戸→東北地方→北海道→信州→高野山→関西地方→四国(遍路)→九州→日本海→(北上)→越後「西生寺」
≪ルートその2≫
江戸→高野山→関西地方→四国(遍路)→九州→信州→東北地方→北海道→日本海→(南下)→越後「西生寺」
◆各地をまわり33ケ寺を建立
信州(長野県)では小谷村、坂北村などに長くとどまったようで、現在でも弘智さまの御信者さんが多くいらっしゃる土地です。
また、弘智さまは、東北地方・北海道を中心に33ケ寺を建立したとされています。現存している弘智さまが創設した寺院は3ケ寺あります。
前記の東京都武蔵野市四ツ谷の「蓮乗院」と、青森県北津軽郡一浦村の「阿仏坊」、北海道松前町の「蓮花庵」です。それに千葉県匝瑳市の「蓮華寺」と、弘智さまのご実家である鈴木家も健在です。
2009年に「越後猿八座」により、300年ぶりに見事復活上演された「弘知法印御伝記」では、法力により魔物退治や死んだ馬から両親を出現させたりしている弘智さまですが、「縁起」にもそれ系エピソードとして「四国に渡航し、次に九州に渡るべく舟で進むと、海中より鮫魚大群が襲って舟がまさに沈まんとするのを、修法をもって退散せしめた。」という一文があります。
◆高齢でも旅を続ける
縁起には「60歳をこえた老体を静かに休めることなく、全国伝導の漂いに旅に出られたことは、せかせかとしてその日その日に追われている迷える我々を、憐れみ救わんとの人慈人悲の御心しかなく、御自身の肉体苦は眼中になかったものと思われる、まさに命を捨てての教化伝導であった」とあります。
●即身仏となる決心をする
◆「高野山」での修行
弘智さまは全国伝導の旅のなかで真言宗の宗祖「弘法大師」さまの入滅の地「高野山」に登り、そこでしばらくの間修行をしています。高野山では弘法大師さまの遺された多くの経や書物を学び、さらに深い教えを知ることができました。高野山で修行中には奈良や京都にも訪れています。
◆決心をして高野山を去る
この当時は「末法」(※弥勒信仰による末法思想)の始まるころにあたり、種々の世の乱れが弘智さまの目に映り、また世間のみならず仏教界でも(高野山でさえ)目に余るものがあり、弘智さまは長く高野山にとどまる事はなかったようです。
「吸収しうるものはさっさと学び、大いなる決心を持って高野山を去った」とあります。おおいなる決心とは自身の肉体を残し、乱世の衆生を教化すること、つまり「即身仏」となる決心をされたのです。
●即身仏となる修行の地を求めて…
(年齢:60代)
◆越後(新潟県)へ入る
民衆に仏教の教えを説くために見知らぬ土地を訪ね、その地にとどまり、あるいは寺院を創設する。定住することなく去り、新たな土地に止まっては仏教の教えを説き、説いては去る…。このような伝導の旅を7年間もひたすらに繰り返してきた弘智さまですが、いよいよ「即身仏の実現のため」に入寂する地を訪ねて最後の旅に出られました。
日本海に沿ってすすみ、越後へとたどり着きます。越後へ来た時の弘智さまは、悠々と馬の背にゆられ、相当の量の書籍を積んでいたといわれています。
●西生寺と弘智さまの出会い
◆西生寺「奥の院」を木喰行の地と決める
越後の弥彦山「猿ケ馬場(地名)」の峠を越えた時、仏法僧鳥の鳴き声を聞いた弘智さまは、その声をたよりに山を分け入ったところ、現在の奥の院のある「岩坂(地名)」にたどりついたのでした。なんとなしに来てみたところが、滝はあるし、静寂な場所だし、即身仏と成るための修行「木喰行」を行うには最高の地であることを知るのです。
◆「弘智」と名乗る
こうして弘智さまは、弥彦山山中の西生寺境内(飛び地)であったこの場所に、小さな修行小屋を建て、それを「養智院(ようちいん)」と名付け、自らの名も「真諦(しんだい)より「弘智」としました。
●奥の院での厳しい3千日の修行
◆木喰行・一字一石経
こうして弘智さまの三千日にも及ぶ、厳しい「木喰行(もくじきぎょう)」が始まりました。「穀十穀断ち(※1)」や「一字一石経(※2)」、「座禅」、一日1万800反の「礼拝行」などの修行を行いました。
※1…米などの穀類を断ち、その代わりに野梨や野いちご、かやの実、熊笹の葉の芯などを食べる事によって身体を浄化し、腐りにくい体質に変える修行法です。
※2…「般若心経」の経文字を、一字ずつ小石に書き入れたものを、弥彦山や村中に埋めました。高野山修行中に思い付いた「弘智さま独特の行」といわれています。
●「即身仏」となる(70余歳で入定)
◆「入定」と「遺言」
3,000日間続けられた、即身仏となるための厳しい修行を成満された弘智さまは、1363年(貞治2年)10月2日、座禅を組んだままの御姿で御入定されました。弘智さまは、
「われ、終焉の後は必ず遺身を埋葬する事なかれ、このままにして弥勒下生の暁を待つ」と固く決意をのこして入滅されました。
「縁起」には「宗教家としての救世の信念、弥勒菩薩が世に下り、末法の乱世を救えるまで、我が身を残してこの世を救わんとの信念、実に偉大なものである。」と記されています。
●入定されてから今日まで
◆400年間「奥の院」に御安置
即身仏となられた「弘智さまの御身体」は、遺言どおり埋葬されることはなく、その後400年もの期間を、修行をした地である「奥の院」の小さなお堂に御安置されていました。(「弘知法印御伝記」が江戸で上演されていた時には、弘智さまはまだ奥の院に御安置されていたことになります。)
◆数々の危機を乗り越える
この間、戦国時代(豊臣秀吉の時代)には、奴兵に槍(ヤリ)で胸を突かれるアクシデント(※3)にみまわれ、この時の衝撃によって弘智法印即身仏の御姿が少し前かがみになったとされています。
全ての即身仏にとって一番の大きな危機となったいわゆる「出開帳」を、弘智法印即身仏も2度行ったと記録されています。また、行き先は江戸のほかにも、佐渡ヶ島にも行ったとも言われています。
明治維新による廃仏毀釈で寺が衰退してしまった時期もありました。このように即身仏となった後も、数々の波乱の時代を乗り越えて現在に至ります。
※3…「死んでいるのに座っているのは、キツネかタヌキが化けているに違いない!」と弘智法印の胸を槍で一突きしたこの奴兵は、後に「真の仏を突いてしまった」と自害しました。本人の遺言により「奴の懺悔の首」として長い間即身仏のそばに置かれていましたが、今は宝物館に展示されています。
◆220年前(現在の)「弘智法印即身仏霊堂」へ
江戸時代の後期、今からおよそ220年前に、西生寺境内に「弘智法印即身仏」を御安置するための「霊堂」が新たに建立されて400年間を過ごした奥の院より移されました。今我々の言う「弘智堂」です。
このようにして今日に至るまで600年以上もの長い年月を、代々の西生寺住職や地元野積村の人々、全国の御信者達など、多くの人々により大切に守り継がれてきました。
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※新しく建立されたぴかぴかの
『弘智法印堂』
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●蓮花寺参拝団
(おてら通信より 2005/11/19) |
| 弘智様の故里、千葉県匝瑳(そうさ)市から先日「蓮花寺さま参拝団」が西生寺にやって来ました。去年、蓮花寺にある『弘智法印堂』を新しく建て替え、そこにお奉りされてあった『弘智法印像』を修復した記念の団参旅行です。蓮花寺の若いご住職さまを中心に総勢36名様(もちろん実家の鈴木さんも)。
普段も、観光バスや個人の参拝客など様々なお客様をお迎えしている私たち。しかしこのように西生寺メイン弘智法印即身仏メインの団参はめったにない。たいていが新潟県内の観光地を巡るツアーの一部に西生寺で即身仏拝観を組み込んでいるパターンがほとんど。だからガラにもなく出迎えるにあたり、非常に緊張してしまいました。わざわざ遠く千葉から西生寺直行で来てくれるのだから「弘智様を拝観して良かった。」と心から思っていただきたい。
ちょうど見頃を迎えたモミジの紅葉が、錦のような華やかな彩りをそえる境内を、住職と長老による力のこもった案内がさっそく始まりました。
各所のご案内、即身仏の御開帳、宝物館、庫裏でお茶のご接待、展望台で日本海や佐渡を眺め、記念写真や弘智様のお護符を買い求めたりのフルコース。
そうこうしているうちに、あっという間に出発時間が。長老、母、住職、私と西生寺フルキャストがぱたぱたと手を振ってお見送りをするなか、今夜の宿のある『岩室温泉』を目指してお帰りになりました。
前日には湯沢で初雪が降り、この数日間で一気に初冬を感じさせる寒くしぐれるどんよりとした気候の中、早朝より千葉を出発し、弘智様を目指してダイレクトに来て頂いた、蓮花寺さまご一行の1泊2日の旅。本当に有難うございました。
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※色を塗り直すなどの修復が施された
『弘智法印像』
※上の2枚の写真は蓮花寺ご住職さまから頂いたものです。特に「弘智法印像」を初めて拝見したときの驚きは忘れられません。私にとって即身仏のお姿ではない生前の弘智様という概念がまったくなかったからです。
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