• 弘智法印即身仏霊堂

  • 弘智法印即身仏

  • 弘智さま立像

今からおよそ660年前の1363年10月2日、 3千日にも及ぶ即身仏となるための厳しい修行を終えた弘智さまは土中に「御入定」されました。

鎌倉時代に千葉県の農家の次男坊として生まれた弘智さま。子供時代にお寺に預けられて僧侶となり、そのお寺の住職まで務め、仏教伝導の旅で全国を行脚して各地で寺院を建立、高野山でも修行をしました。
その後「即身仏となる決意」をされて当山西生寺の奥の院にたどり着き修行の地と決め、修行ののち即身仏となられました。

即身仏となられた後も数々の波乱の時代を、その時代の信者の方々に支えられて乗り越え現在に至ります。

1.「即身仏拝観」のご案内

  • 閉じられたお御簾

  • 弘智法印即身仏さま

  • 即身仏拝観の様子

当山西生寺は、境内・緒堂を誰でもいつでも無料で自由に参拝することができます(宝物堂を含む)。
弘智法印即身仏(ミイラ仏)の拝観(御開帳)をご希望の場合のみ、霊堂内での御祈祷料として拝観料を頂いております(ご案内付)。また、境内には大型観光バスにも対応できる参詣者専用の無料駐車場も完備しております。

弘智法印即身仏拝観情報

受付時間

午前9時~午後3時30分(最終受付)
※受付場所は駐車場内「受付寺務所」

拝観料

(個人)大人・高校生 500円
    小中学生 300円
(団体)20名以上 大人・高校生 400円
    小中学生 200円

休観日(定休日)

毎月28日、7月15日、
8月13日〜15日、10月 第1日曜日、冬期休観

【冬期休観】:12月中旬~3月31日
【駐車場】:境内に大型駐車場完備(無料)

※休観スケジュール以外にも急な葬儀など拝観ができない時がありますので、電話(0258-75-3441)でご確認をいただくのが確実です。

お電話でのご予約・お問い合わせ

拝観・永代供養墓・水子供養等
お気軽にお電話ください

受付時間 9:00~17:00

2.日本最古の即身仏

唯一の室町時代の即身仏さま

現在全国に約24体の即身仏がお祀りされています。そのほとんどの即身仏が江戸時代以降に修行された行者さんのものです(約200年~300年前)。
唯一、弘智法印即身仏だけが江戸時代からさらに300年さかのぼった室町時代前期の即身仏で、今から約660年前のものとされています。

人形浄瑠璃「越後國柏崎弘知法印御伝記」

  • 「越後國柏崎弘知法印御伝記」原本コピー

  • 「越後國柏崎弘知法印御伝記」原本コピー

今から300年前の江戸時代後期、日本橋の人形浄瑠璃の一座が当山の「弘智法印即身仏」をモデルとした、人形浄瑠璃「-越後國柏崎-弘知法印御伝記」を上演しました。当時、この浄瑠璃の台本が「本」にもなり刊行されたそうですが、その後一度も「弘知法印御伝記」は上演されること無く、本も現存せぬままに”幻の御伝記”と言われてきました。
長い間その存在すら忘れられていた「本(台本)」が昭和43年、なんとイギリスの大英博物館で、大学教授の鳥越文蔵先生(早稲田大学名誉教授)の手により250年ぶりに偶然発見され、帰国後現代語に訳され「復刻本」を出版されました。

幻の「弘知法印御伝記」300年ぶりの復活上演

  • 2009年11月「上越講演」のポスター

  • 越後猿八座メンバーの練習の様子

2008年(平成20年)1月、新潟市在住で「文楽義太夫」として活躍をされている方が、ドナルド・キーンさんを介してこの幻の「弘智法印御伝記」の存在を知り、復刻本を読むと「内容も面白いしふるさと新潟でこの「弘知法印御伝記」を300年振りに復活上演させよう!」と決意しました。

賛同する文楽仲間とともに「越後猿八座」を立ち上げ、人形師などの団員は新潟在中の初心者を募集。一年半年にも及ぶ熱心な稽古を重ね、2009年(平成21年)6月、ゆかりの地「柏崎」で念願の「旗揚げ公演」を達成しました。
さらに2010年(平成22年)10月30日・31日には、東京有楽町「浜離宮朝日ホール」で「凱旋上演」ともいえる念願の東京公演が行われました。

ミイラと即身仏の違いは?

エジプトなどで有名なミイラ。日本国内でも中尊寺金色堂の奥州藤原三代のミイラがよく知られています。
「即身仏」と言ってもどんなものなのかわからない人でも「ミイラ仏」と言うとほとんどの方がお分かりいただくようです。このように一般的には「ミイラ仏」といわれる即身仏ですが、厳密に言うと双方には大きな違いがあるのです。

ミイラとは、病死や事故死などで普通に死んだ後、腐らないようにする為に臓器を取り出したり薬草を詰めたりと、後からなんらかの手を加えて作り上げられたもの。または死後「その土地の気候や風土で白骨化されずに自然にミイラ化されたもの」などを一般にミイラと言います。

一方、即身仏とは行者が「信仰のもとに、自らの意思で、即身仏になる為の想像を絶する厳しい行や、腐りにくい体質にするための食事制限をして成満して成った仏」の事です。(ちなみに現在の法律では即身仏になることは禁止されています。)

3.生い立ちから御入定、現在まで「弘智法印即身仏略歴」

千葉県匝瑳市大浦の「鈴木家」に生まれる

名は「音松」

現存する日本最古の即身仏(660年前、室町時代)である弘智法印は、鎌倉時代(西暦1290年代)に、千葉県八日市場市(現在の匝瑳市)大浦の鈴木五郎左ェ門の次男「音松(おとまつ)」として生まれました。

幼少の頃「出家」する

音松は幼少のころに、同じ大浦村にある「蓮花寺(れんげじ)」に入信し、出家して僧となります。なぜ出家したのかは確定的なことは分かっていませんが、この頃よりすでに表れていた偉人の資質を父親が見抜き、父の心遣いで出家させたとも言われています。
寺に入った弘智さまは、得度をして名前が「音松」から「真諦(しんだい)」となりました。以後ずっと「真諦」を名乗っています。「弘智」となるのは、西生寺「奥の院」で即身仏と成るための修行を始めた頃からです。

ふるさと「蓮花寺」住職~「仏教伝道」の決意 (年齢:~40代後半)

「蓮花寺」の住職時代

弘智さまは、40代後半で蓮花寺を去るまでの、相当の年月を蓮花寺の住職として務めています。農家出身の次男坊の身にして、一ケ寺の住職になることは、当時としては大変な出世だったといえるのだそうです。(画像は現在の千葉県匝瑳市にある蓮華寺さまの「弘智法印堂」とお堂にお祀りされている「弘智法印像」です)

「蓮花寺」を去る

長く住職を務めていた蓮花寺を去る時が来ます。なぜか?それは「蓮花寺に伝わる話」によると、「大雨でたびたび村と寺との道が遮断されてしまう事」などを解消するため、弘智さまは”とてつもなくスケールのでかい計画”を考えたのだそうです。それは「蓮花寺に大山門を創設し、山門から集落のある向かいの山まで、約1キロにわたる「大陸橋」を架す」という計画でした。しかし、檀徒の猛反対にあいます(「和尚が狂った」などと言われたらしい…)。

「仏教伝導」の決意

その後もこの一件が原因となり、各種の面で檀徒と衝突をきたしたので、弘智さまは「真の伝導のためには、かかる僻地に住するよりは、中央へ出て仏教護持の大運動を興さん」と考えたとされています。そんな理由で50歳を前に、長年住み慣れた土地を去って「伝導の旅」に立つ弘智さまなのでした。

武蔵野(四ツ谷)で「蓮乗院」を建立し住職に

武蔵野(のちの江戸)へ

ふるさとを後にした弘智さまはまず、武蔵野にとどまり、民衆に仏教の教えを説きました。さらに同地にお寺を建立し「蓮乗院(れんじょういん)」と名付け、弘智さま自身も同寺の住職となります。自らが建立した寺の住職として今度こそ、余生を豊かに落ち着いて過ごすのかと思いきや、5~6年でここでもまた住職の地位を捨て寺を去るのでした。

「伝導の旅」で諸国を巡る(7年間) (年齢:50代~)

旅のルート

弘智さまは以後7年間にわたり、あてもない全国仏教伝導の旅を続けます。「旅のルート」ははっきりとした記録がありません。ただ、2つの説があります。
≪ルートその1≫
江戸→東北地方→北海道→信州→高野山→関西地方→四国(遍路)→九州→日本海→(北上)→越後「西生寺」
≪ルートその2≫
江戸→高野山→関西地方→四国(遍路)→九州→信州→東北地方→北海道→日本海→(南下)→越後「西生寺」

各地をまわり33ケ寺を建立

信州(長野県)では小谷村、坂北村などに長くとどまったようで、現在でも弘智さまの御信者さんが多くいらっしゃる土地です。また、弘智さまは、東北地方・北海道を中心に33ケ寺を建立したとされています。現存している弘智さまが創設した寺院は〝3ケ寺〝あります。

前記の東京都武蔵野市四ツ谷の「蓮乗院」と、青森県北津軽郡一浦村の「阿仏坊」、北海道松前町の「蓮花庵」です。それに千葉県匝瑳市の「蓮華寺」と、弘智さまのご実家である鈴木家も健在です。

2009年に「越後猿八座」により、300年ぶりに見事に復活上演された「弘知法印御伝記」では、法力により魔物退治や死んだ馬から両親を出現させたりしている弘智さまですが、「縁起」にも「四国に渡航し、次に九州に渡るべく舟で進むと、海中より鮫魚大群が襲って舟がまさに沈まんとするのを、修法をもって退散せしめた」という一文があります。

高齢でも旅を続ける

縁起には「老体を静かに休めることなく、全国伝導の漂いに旅に出られたことは、せかせかとしてその日その日に追われている迷える我々を、憐れみ救わんとの人慈人悲の御心しかなく、御自身の肉体苦は眼中になかったものと思われる、まさに命を捨てての教化伝導であった」とあります。

即身仏となる”決心”をする

「高野山」での修行

弘智さまは全国伝導の旅のなかで真言宗の宗祖「弘法大師」さまの入滅の地「高野山」に登り、そこでしばらくの間修行をしています。高野山では弘法大師さまの遺された多くの経や書物を学び、さらに深い教えを知ることができました。高野山で修行中には奈良や京都にも訪れています。

決心をして高野山を去る

この当時は「末法」(※弥勒信仰による末法思想)の始まるころにあたり、種々の世の乱れが弘智さまの目に映り、また世間のみならず仏教界でも(高野山でさえ)目に余るものがあり、弘智さまは長く高野山にとどまる事はなかったようです。
「吸収しうるものはさっさと学び、大いなる決心を持って高野山を去った」とあります。”おおいなる決心”とは”自身の肉体を残し、乱世の衆生を教化すること”、つまり「即身仏」となる決心をされたのです。

即身仏となる修行の地を求めて… (年齢:60歳前後)

越後(新潟県)へ入る

民衆に仏教の教えを説くために見知らぬ土地を訪ね、その地にとどまり、あるいは寺院を創設する。定住することなく去り、新たな土地に止まっては仏教の教えを説き、説いては去る…。このような伝導の旅を7年間もひたすらに繰り返してきた弘智さまですが、いよいよ「即身仏の実現のため」に入寂する地を訪ねて最後の旅に出られました。
日本海に沿ってすすみ、越後へとたどり着きます。越後へ来た時の弘智さまは、悠々と馬の背にゆられ、相当の量の書籍を積んでいたといわれています。

西生寺と弘智さまの出会い

西生寺「奥の院」を木喰行の地と決める

越後の弥彦山「猿ケ馬場(地名)」の峠を越えた時、仏法僧鳥の鳴き声を聞いた弘智さまは、その声をたよりに山を分け入ったところ、現在の奥の院のある「岩坂(地名)」にたどりついたのでした。なんとなしに来てみたところが、滝はあるし静寂な場所だし、即身仏と成るための修行「木喰行」を行うには最高の地であることを知るのです。

「弘智」と名乗る

こうして弘智さまは、弥彦山山中の西生寺境内(飛び地)であったこの場所に、小さな修行小屋を建て、それを「養智院(ようちいん)」と名付け、自らの名も「真諦(しんだい)より「弘智」としました。

奥の院での厳しい3千日の修行

  • 座禅石で修行する弘智さま

  • 弘智さま自筆の経本

木喰行・一字一石経

こうして弘智さまの三千日(8年と少し)にも及ぶ、厳しい「木喰行(もくじきぎょう)」が始まりました。「穀十穀断ち」や「一字一石経」、「座禅」、一日1万800反の「礼拝行」などの修行を行いました。

※木喰行…即身仏となるための修行のこと。

※穀十穀断ち…米などの穀類を断ち、その代わりに野梨や野いちご、かやの実、熊笹の葉の芯などを食べる事によって身体を浄化し、腐りにくい体質に変える修行法です。

※一字一石経…「般若心経」の経文字を、一字ずつ小石に書き入れたものを、弥彦山や村中に埋めました。高野山修行中に思い付いた「弘智さま独特の行」といわれています。

「即身仏」となる(70歳前後で入定)

「入定」と「遺言」

3000日間続けられた、即身仏となるための厳しい修行を成満された弘智さまは、1363年(貞治2年)10月2日、座禅を組んだままの御姿で土中に御入定されました。弘智さまは、
「われ、終焉の後は必ず遺身を埋葬する事なかれ、このままにして弥勒下生の暁を待つ」と固く決意をのこして入滅されました。

「縁起」には「宗教家としての救世の信念、弥勒菩薩が世に下り、末法の乱世を救えるまで、我が身を残してこの世を救わんとの信念、実に偉大なものである」と記されています。

入定されてから今日まで(数々の波乱の時代を乗り越えて現在に至る)

250年間「奥の院」に御安置

即身仏となられた「弘智さまの御身体」は、信者の手により土中から修行した土地である「奥の院」の小さなお堂に移されました。以来250年もの間、そのお堂に御安置されていました。

戦国時代(豊臣秀吉)

この間、戦国時代(豊臣秀吉の時代)には、奴兵に槍(ヤリ)で胸を突かれるアクシデントにみまわれ、この時の衝撃によって弘智法印即身仏の御姿が少し前かがみになったとされています。

この事件がきっかけとなり、弘智法印即身仏は現在の弘智堂のある場所(西生寺境内)に移されました。

江戸時代

全ての即身仏にとって一番の大きな危機となったいわゆる「出開帳」を、弘智法印即身仏も数回行ったと記録されています。また、行き先は2度の江戸のほかにも、目の前の日本海を渡り佐渡ヶ島に行ったとの記録も残されています。

およそ220年前(現在の)「弘智法印即身仏霊堂」建立

江戸時代の後期、今からおよそ220年前に、西生寺境内のお堂に御安置されていた「弘智法印即身仏」をお祀りするための「霊堂」が新たに建立されました。現在の「弘智堂」です。

江戸時代(1803年)良寛さまは西生寺に仮住まい。即身仏を参拝

西生寺境内に「弘智法印即身仏霊堂」が建立され、弘智さまが霊堂に御安置をされて間もなくの頃、国上山「五合庵」で5年ほど暮らしていた良寛さまは、45歳の時に一時的に「五合庵」を出てゆかなければならなくなり、分水や寺泊の寺院を転々とする「仮住まい」の生活が2年ほど続くことになります。

この間の享和3年(1803年)、良寛さま46歳の時に西生寺で約半年ほど「仮住まい」をされました。この西生寺滞在中に良寛さまはたびたび「弘智法印即身仏」をお参りしました。弘智法印即身仏の遺した「辞世の句」に感銘を受けた良寛さまは「題 弘智法印像」として「漢詩」を詠まれました。

→詳しくは「西生寺紹介・縁起」の「良寛和尚さまと西生寺」をご覧ください。

明治時代

明治維新による廃仏毀釈で寺が衰退してしまい寺院荒廃の危機。
弘智法印即身仏を破壊や紛失から守るために、一時的に西生寺から別の場所に密かに移され、保護されていた時期もありました。

昭和時代

戦時中、地元の野積村から出征する人たちのほとんどは「弾除けのお守り」として弘智法印即身仏の着衣のお守り「御衣守り」を身に着けて戦地へと赴いて行きました。戦後になると「即身仏ニセモノ疑惑」騒動が起こり、昭和34年(1959年)に「全国即身仏学術調査」が行われました。

現在

このようにして弘智法印即身仏さまは今日に至るまで600年以上もの長い年月を、代々の西生寺住職や地元野積村の人々、全国の御信者など、多くの人々によって大切に守り継がれてきました。弘智さまへの変わらぬ信仰は令和の時代になってもこれからも続いていきます。

時代を越えて受け継がれているもの

弘智法印さまをお参りする時にお唱えする「ご宝号」

「南無弘智大士(なむこうちだいし)」 (3回、もしくは7回お唱えしましょう)

弘智講

弘智法印さまが御入定をされた日(祥月命日)である10月2日には毎年「弘智講」が開催されてきました。現在は10月第一日曜日に開催されています。この日は〝皆で弘智さまを偲ぶ日〝として、檀家さんが菩提寺に集い、弘智さまに関する住職の法話、法要、そして最後は全員で弘智堂に移動して弘智法印即身仏さまの御開帳をして家内安全や健康を祈願します。

12年に一度「子年(ねどし)」に「衣替えの儀式」

  • 2020年3月の「お衣替え」で用意された着衣

12年に1度(子年)、弘智法印即身仏の身に着けている「衣」を取り替える儀式が行われます。これは1363年10月2日に入定された時の弘智法印さまによる「御遺言」によるもので、以来数百年間欠かすことなく「子年」に衣替えを行ってきました。

「御衣替えの日」当日は弘智堂を閉め切り、精進をして身を清めた住職と施主のみで静かに執り行われます。大勢が集まり弘智さまを偲ぶお祭り的な「弘智講」とはちがい「衣替えの儀式」は毎回、極力少人数でひっそりと静かに行われてきました。理由は、弘智さまが自らの身体に触れられることや見られることを嫌うので「お堂を閉め切り、最低限の人数でひっそりと行うべし」と言い伝えられているからです。

この「衣替えの儀式」のために準備される新しい衣は、弘智法印即身仏さまのサイズや体形に合わせて作ったオーダーメイドの特注です。素材は昔より「麻製」とされています。サイズの他にも座った姿勢のままの着替えとなるため、細かい部分に工夫がされています。

昭和のはじめまでは、即身仏の衣はずっと地元の村の信者さんたちが作り奉納してくれていました。麻を植えるところからはじまり農閑期に麻を紡いで布を織るというとても手間暇のかかる作業でした。

この弘智法印即身仏が12年間身に着けていた衣を細かく切ったものを入れた、災い除けの「御衣守り」は〝数百年続くロングセラーのお守り〝です。当山でいちばん御利益のあるお守りです。

 

4.辞世の句

弘智さまは、御入定するにあたり「辞世の句」を詠まれました。

「岩坂の主(あるじ)は誰ぞと人問わば 墨絵に書きし松風の音」

「岩坂」とは修行をされていた「養智院(奥の院)」のある場所の地名です。
「墨絵」に描かれた「風にゆれる松」の「その松風の音」が「岩坂のあるじ」と言うのです。
墨絵に描かれた「松」は見えても、その「風の音」までを実際に見ることはできません。
あるようで、ない。ないようで、ある。いるようで、いない。いないようで、いる。
全てのものは移り変わり、常に同じ状態のものはない。

仏教でいうところの「諸行無常」を表しているようにも思えます。

5.ロングセラーのお守り「御衣守り」

  • 旧型「お衣守り」

  • 新型「お衣守り」(サイズ:縦6センチ×横4センチ)

  • 表 弘智法印即身仏のお姿

  • 裏 紫色の四角い布がお衣

弘智法印即身仏が12年間身に着けていた御衣(おころも)は弘智さまの分身とされ、昔から大変御利益があるとされてきました。
西生寺では、この12年間即身仏が身に着けていた御衣をひとりでも多くの信者さんが身に着けられるようにと、小さく切り「御衣守り」としたものが現在まで伝わっています。(一体300円)
数百年続くロングセラーのお守りで、当山でいちばん御利益のある手作りのお守りです。

そして伝統を受け継ぎつつも、2020年3月に行われた「御衣替え」の時まで即身仏さまが身に着けていた「法衣(お衣)」を使用する「新しい御衣守り」を、思い切って数百年ぶりにフルモデルチェンジして作りました。

薄く小さめのカード型にしてどこでもすっきりと収まるように、そして御衣守り史上初となる透明のケースに入れて、要望の多かった「カットした着衣がしっかりと見えるように」しました。ご利益は変わらずに、時代に合わせたスタイルにリニューアルを遂げました。

御衣守りのご利益 弘智法印即身仏と供に

この「御衣(おころも)守り」は、そばにいつも弘智法印さまがいてくださり全ての災いから身を守ってくれるお守りですので、おひとりおひとりがお財布やスマホケースなどに入れて常に身に着けて持ち歩くお守りです。「御衣」の御利益はいろいろありますが、普段は全ての災いから身を守ってくれる〝身替わり〝として、また〝安産のお守り〝としても定着しています。

また、御信者の方のなかには、お守りの中に入っている細かい衣を飲む事を信仰のひとつにしている方もいらっしゃいます。(弘智さまが自分の体の中に入る事で病気や悩みから救われるという信仰です)

この御衣守りは、現在も多くの御信者の方々によって守られている弘智法印即身仏と供に、時代を越えて大切に受け継がれて来たもののひとつです。

6.弘智法印即身仏即身仏「身代わりの木像」

江戸時代に製作

「宝物堂」入口を入ると中央に「江戸への出開帳用」として江戸時代に製作された「弘智法印即身仏身替わりの木像(ダミー)」が御安置されています。

1363年に御入定されて即身仏となられた日本最古の「弘智法印即身仏」ですが、江戸への「出開帳(でがいちょう)」は伝わっているだけでも2度あります。出開帳により、弘智法印即身仏の名は江戸中に広く知れ渡るわけですが「出開帳」で多くの即身仏が紛失したり壊れたりしたそうです。

つまり、この「身替わりの木像」が本物の弘智さまに替わり、遠い江戸への苛酷な出開帳に出動?してくれたお蔭で「弘智法印即身仏御本体」が守られたのです。どなたのアイデアかは今となっては知る由もありませんが本当に良かったです。

この身替わりの木像はただの〝弘智さまそっくりさん〝ではなく、開眼していますので(ちゃんと弘智さまの魂が入っている)、弘智堂に行けない方もここで弘智さまにお参りをすることができます。

「身替わりの木像」のちょっと不思議なおはなし

「弘智法印身替わりの木像 」は開眼してますので、弘智さまの魂が入っています。
じつは「宝物堂」が完成する前まで「木像」は客殿裏の部屋に置かれ、かなりの年月を人目につくことのない場所でひっそりと過ごしていました。
「身替わりの木像」用に作られた新しい御厨子のある「宝物堂」にいよいよ木像を移すという日の朝「勤行」に出た先代住職が、雪の積もった境内の客殿から宝物堂までの間の雪道に、点々と「片脚だけの人の足跡」がついているのを見つけたそうです。
「片脚」というのが不思議だと思った瞬間に、ピン!ときたそうです。
それは客殿の「身替わりの木像」の脚が、片方壊れていたことを思い出したからです。
先代は「ひと目のつかない暗い部屋に長い間置かれていた弘智さまの魂がよろこびのあまり、体より先に宝物堂へと移ったのではないか」と話してくれました。

7.弘智法印に関する遺品や資料(宝物堂に展示)

一字一石経

弘智さまが即身仏になるために行った「3千日の修行」のひとつに「一字一石経」というのがあります。
「般若心経」の経文字(漢字)を自ら墨で〝小石ひとつに一字ずつ〝を書き、修行を見守る村人が暮らす
地元野積村の要所に埋めたり、災害のあった場所に供養のために埋めたりしました。
昭和の時代に、野積地区の皆さんが「コレって弘智さまの石ではないか」と持ち寄ってくれた石を展示しています。
墨で書かれたうっすらと残る弘智さまの筆跡を見ると、弘智さまが即身仏となる強い決意のもとに行われた厳しい修行の一片をリアルに思い起こさせてくれます。

槍奴(やっこ)兵の懺悔の首

戦国時代(豊臣秀吉の時代)、村で「夜な夜な山のお寺の方角から怪しい火が灯る」というウワサが流れたそうです。
ウワサを聞きつけた奴兵が火の出るという場所まで来ると即身仏が御安置されている小さなお堂があり、奴兵はお堂の中で端座する即身仏を見て「死んでいるのに座っているのはキツネかタヌキが化けているに違いない!」と、槍(ヤリ)で即身仏の胸を突くという事件が起こりました。
弘智法印の胸を槍で一突きしたこの奴兵は後に「真の仏を突いてしまった」と自害しました。
本人の遺言により「奴の懺悔(ざんげ)の首」として長い間即身仏のそばに置かれていたものです。
この時の槍に突かれた衝撃で、弘智法印即身仏さまの姿勢が前かがみになったと伝えられています。

8.学術調査

弘智法印即身仏プロフィール

血液型 AB型
身長 約179センチ
病 歴 なし
死亡年齢 60歳前後
死亡年代 室町時代

※端座したままの御姿で土中にて入定

日本初の学術調査で「ニセモノ疑惑」を払拭

昭和34年(1959年)、文部省後援のもとに日本で初めてとなる即身仏の学術調査が行われました。全国の即身仏に先駆けて、その第1号が弘智法印即身仏でした。

実はそれまで一度も科学的立場からの検証をされていなかった即身仏は、昔から「ニセモノ疑惑」のうわさ話もつきなかったのです。また信仰とは別に、長い間手付かずだった即身仏の保存状態にも問題がありました。そういった事も含め、この学術調査はとても大きな意味がありました。

同年7月23日から約半年間にわたり、早稲田大学教授の安藤更生氏、東京大学教授の鈴木尚氏、新潟大学教授の山内峻呉氏、ほか多数の学者による調査チームが組まれ、歴史学、医科学、生理学的な立場からの研究がなされました。

その結果、弘智法印即身仏は歴史学的にも正しく(鎌倉時代後期に入定)、血液型はAB型で生前の病根はなく、死亡年齢は60歳前後、下肢骨の発達が良く、諸国をくまなく行脚された方であり、容貌は実に立派で、骨や皮膚のしわの様子からすると、座ったまま入定された修行僧であると権断されました。

この学術調査の際に撮られたレントゲン写真(画像)などの資料は当山の宝物館に展示されております。また、境内にはこの時の調査をもとに造られた弘智法印の修行時代のお姿の銅像が建立されています。