• 秘仏御本尊阿弥陀如来像

  • 薬師如来像(脇仏)

  • 大日如来像(脇仏)

  • 本堂「阿弥陀堂」内部

  • 秘仏「本尊阿弥陀如来像」の入る厨子

開山
天平5年(西暦733年)
開祖
行基菩薩(ぎょうきぼさつ)
御本尊
上品上生阿弥陀如来仏(じょうぼんじょうしょうあみだにょらいぶつ)
真言
オンアミリタテイセイカラウン
御利益
現世の安穏・極楽往生


当院の阿弥陀如来さまは、9クラス(九品印)ある阿弥陀さまのうちの最上級とされる「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」の阿弥陀如来仏です。「秘仏」とされており、普段は厨子の中に収められ扉が閉ざされているので、その御姿を拝見することはできません。12年に1度の子年(ねどし)に限り、1ヶ月にわたり御開帳されます。

1.開創と御本尊「阿弥陀如来」

御本尊「阿弥陀如来像」の由来と御利益

3000年前「御本尊」鋳造

西生寺の御本尊は、最上級という意味を示す”上品上生(じょうぼんじょうしょう)”の阿弥陀仏で、今からおよそ3000年前にインドで鋳造(ちゅうぞう)された「一寸八分(約5センチ)の純金仏」です。
この小さな純金の阿弥陀仏が御本尊阿弥陀如来さまの一番最初のお姿です。

この”純金阿弥陀仏誕生のいきさつ”ですが、インドのお金持ちの「月蓋(げつがい)長者」という人が病気の娘の為に砂金を採り、その砂金「エンブ檀金(だんごん)」を使って鋳造した純金仏と言われています。
この純金の阿弥陀如来仏が日本へ、そして弥彦山中腹の清水平(しみずだいら)にご安置されていたのだそうです。

”言い伝え”によると、その純金仏が「神光飛来」(神様が飛ばす)により弥彦山に安置されたとも、
「第12代景行天皇」の時代にご因縁により日本に伝わってきた純金仏が、弥彦山中腹に安置されたとも伝えられています。弥彦山は昔より「阿弥陀信仰の山」といわれていますがこれ以上詳しい事は分からず、あくまでも”言い伝え”によります。

「三重構造」の阿弥陀如来像となる

奈良時代(西暦733年)に純金阿弥陀仏のお祀りされている伽藍(がらん)を弥彦山中腹より移動(南下)させた「行基(ぎょうき)上人」が自らの手で阿弥陀如来像を彫り上げました。この彫り上げた木像の阿弥陀仏の中に「お腹こもり(内仏)」としてインドから飛来したと言われる純金仏を収めました。

さらに、いつの頃かははっきりとしないのですが、行基上人の彫った木像の阿弥陀仏をさらに大きく包む形で、現在の「三重構造」の阿弥陀如来像となりました。同時に「脇仏(わきぶつ)」として左に「大日如来像」、右に「薬師如来像」がお祀りされました。それ以降、当山の御本尊「阿弥陀如来仏」は”秘仏”とされ、12年に一度の”子年”にのみ期間を設けて御開帳を行ってきました。

12年に一度の「御開帳」と阿弥陀さまの「御利益」

  • 印を結んだ両手に赤い「お手綱」をつけた阿弥陀如来さま(御開帳)

  • 御開帳初日、角塔婆の前で「開白法要」の様子

  • 本堂「阿弥陀堂」内での法要の様子(御開帳)

  • 阿弥陀堂より伸びたお手綱が角塔婆とつながる(御開帳)

西生寺御本尊阿弥陀如来仏は「秘仏」です。「子年(ねどし)」の御開帳期間以外の12年間はずっと御厨子の扉が閉ざされたままとなっていて、そのお姿を拝むことはできません。西生寺の阿弥陀さまはこれまでお話してきたように「三重(じゅう)構造」になっています。

12年に一度の「御開帳」で私たちが拝見できる阿弥陀さまは、一番表側の阿弥陀仏像です(上の写真)。中間(2番目)の阿弥陀仏像は、行基(上人)が彫った木像の阿弥陀仏ですが、この阿弥陀さまは構造上、拝見する事はできません。そして中心の(核になっている)「お腹ごもり」の阿弥陀仏像は、インドから飛来した約5センチの純金仏の阿弥陀さまなのですが、そのお姿も拝見することはできません。

この小さな5センチほどの純金の阿弥陀さまが西生寺の”超々御本尊さま”と言えるのですが、構造上拝見することは可能です。しかしこちらは「御開帳なしの絶対の秘仏」とされており、昔から住職とお弟子以外は拝見することはできません。お寺に暮らす家族ですら”絶対に見る事は許されない”仏さまなのです。

御開帳期間中は厨子の扉が開かれ、阿弥陀さまのお姿を直接拝むことができます。また、阿弥陀様の印を結んだ両手の指から五色綱がお堂の外の参道まで伸びているので、参拝者はその綱に触れることができます。綱に触れると阿弥陀さまに直接触れるのと同じ利益が得られるとされています。

阿弥陀さまの御利益は”現世の利益”と”極楽往生”です。

人はみな生まれてくる時はひとりです。しかも生まれた瞬間から誰しも死へ向っての歩みがはじまります。
揺るぎない信心で心の安穏、暮らしの安穏を仏さまに祈り、何事にも感謝の気持ちを忘れずにいれば、仏さまのご加護のもとで安心して生を全うすることができます。

そしてあの世へ旅立つ時は、決してひとりではありません。阿弥陀さまや菩薩さま、会いたかったなつかしい人のお迎えがあり、仏さまに導かれながら安らかな気持ちでお浄土へと旅立つことができるのです。

2.西生寺縁起

約300年前に総本山智積院の第11世覚眼僧正により書かれた当山の大縁起史によると、西生寺のご本尊は今からおよそ3000年前にインドで鋳造された約5センチの純金仏で弥彦山中腹の清水平(しみずだいら)に安置されていました。
この純金仏はその後、奈良時代の聖武天皇の時に、開祖である行基菩薩自らが刻んだ木像の阿弥陀如来像のなかに「お腹ごもり」の秘仏として収められ、現在までお祀りされています。西生寺は、ご本尊とともに久安元年(1145年)に南都興福寺の寿奎上人(じゅけいしょうにん)の手により現在の境内に移築されました。

京都にある本山「智積院」の第11世の管主さま「覚眼僧正」により、約300年前に書かれた西生寺の「大縁起史(宝物堂に展示)」を手がかりにもう少しくわしくたどってみたいと思います。

西生寺の開基から現在まで

約1300年前「西生寺開基」※天平5年(西暦733年)

奈良時代に「行基上人」が、弥彦山中腹の清水平から少し南下した飛峯(とびがみね)という場所に、純金でできた小さな阿弥陀仏がお祀りされている伽藍(がらん)を移動させました。飛峯(とびがみね)は現在の西生寺の位置の目と鼻の先、少し北側になります。この飛峯(とびがみね)という地名は、インドにも同名の地名があってその地は「阿弥陀如来発祥の地」と言われているそうです。

行基上人は、次に自らの手で阿弥陀如来像を彫り上げ、木像の阿弥陀仏の中に「お腹こもり(内仏)」としてその純金の阿弥陀仏を収めました。

純金仏をお腹(はら)こもりとする「阿弥陀如来仏」が飛峯(とびがみね)の伽藍に安置され、御本尊としてお祀りされた時点を、西生寺のはじまりである「開基」としています。それが今から約1300年前の奈良時代。聖武天皇の頃の天平5年で、西暦に直すと733年です。

※時代の目安としては749年(9月)に2年の歳月をかけた”東大寺大仏”の鋳造が終わっています。
※この行基(上人)は西暦749年2月に80歳で亡くなっています。

約900年前「現在の場所へ」※久安元年(西暦1445年)

平安時代の後期、久安元年(1145年)、今からおよそ880年前に、奈良興福寺の「寿圭(じゅけい)上人」の手により、阿弥陀如来仏は飛峯(とびがみね)から現在の西生寺の場所に移ってきました。この時、伽藍や境内が大きく整備されました。

600年前「弘智法印即身仏」御入定 ※(西暦1363年)

その後室町時代の1363年には、当山奥の院での厳しい3000日の修行を終えた「弘智法印」が御入定を果たし即身仏となられ、人々の信仰を集め現在に至ります。
(※くわしくは「弘智法印即身仏」のページをご覧ください。)
その他、西生寺には親鸞上人や松尾芭蕉、良寛和尚さんなどが訪れ、それぞれ軌跡を残しています。

3.良寛和尚さまと西生寺

西生寺に仮住まい

良寛さまといえば、40歳で「五合庵」に入って以来、あしかけ20年ほどを過ごした国上山「五合庵」が有名です。その「五合庵」生活の中で45歳から2年間ほどを五合庵を出て、分水(燕市)や寺泊(長岡市)のお寺を転々と「仮住まい」をされた時期があります。

理由は五合庵がもとは国上寺歴代住職の隠居所だったため、住職の隠居にともない五合庵を出ることになったからです。そんなわけで良寛さまの「仮住まい生活」が始まりました。寺泊の「照明寺」や分水の「本覚院」などの近隣のお寺を転々とするなか、良寛さまが「仮住まい」のために当山を訪れたのは享和3年(1803年)、良寛さまが46歳の時でした。西生寺には半年ほど滞在されました。

西生寺ゆかりの「良寛さまの遺墨」

良寛さまが当山に仮住まいをされた滞在中に「梅の木の花盗人」の長唄(直筆)や、弘智法印即身仏を拝し、感銘をうけて詠まれたといわれる漢詩「弘智法印像」などを遺されました。若き日の良寛さんの遺墨は当山でしか拝見できません。

「梅の木の花盗人」の長唄 ※宝物堂に展示

この「長唄」は良寛さまが、5歳年下の親友「原田鵲斎(※五合庵を斡旋した人です)」に贈ったものですがその”いきさつ”はこうです。
5歳年下の親友、原田鵲斎(じゃくさい)さんは梅の木が大好きで「梅の木のある庭」にはどこへでも出かけて行き、梅を譲ってもらっていたそうです。たまたま、訪ねた野積の西生寺に「梅の古木」があったので「ぜひゆずって頂きたい」と懇願したのですが、断わられてしまいました。あきらめきれない鵲斎さんは、人夫を連れてこっそりと西生寺の梅の古木を盗みに行くという大胆な手に打って出ました。しかし山に入る途中で野積の村人に見つかってしまい、村中が大騒ぎとなり、ついに「梅の古木を入手すること」は果たせなかったということです。

この話を聞いた良寛さまは「まことに風流なおもしろい話だ」と大変気に入り「梅盗人の様子」を想像してこの長唄を詠まれ、盗人当人である「原田鵲斎」に贈ったのです。なんともちゃめっけたっぷりの良寛さまらしいエピソードですね。

※熱心な「良寛ファン」のお客さまに、たまーに「長唄に詠まれた梅の古木はまだあるのですか?」ときかれますが、残念ながら今はありません。

漢詩「弘智法印像」

良寛さまが弘智法印即身仏を拝観し、また弘智さまの「辞世の句」”岩坂の主は誰ぞと人問わば、墨絵に書きし松風の音”に感銘を受けてこの漢詩をつくったといわれています。
(岩坂とは奥の院の地名です。)

★解説:「題 弘智法印像」
ごつごつとして黒くきびしい藤の枝は、夜雨に打たれて朽ち、美しく立派なお袈裟は暁の煙と化した。
しかし、誰がこの弘智法印の本当の目的を知っているのだろうか?
それはただ「弘智法印の辞世の句」の中にのみあり、時空をつらぬいて伝わっているのだ。

良寛さまの生い立ち

良寛さまは1785年(宝暦8年)、出雲崎で名主「橘屋山本家(回船問屋)」の長男として生まれます。(幼名は栄蔵、父は以南(与板出身)、母は秀子(佐渡相川出身)

実家の後継ぎ「名主見習い」となった18歳の時、突然、出雲崎町の禅宗「光照寺」で出家をして4年間を禅の修行に励みます。22歳の時、西国(岡山県倉敷市)の「円通寺」で得度してさらに修行を重ねます。

諸国行脚の末、39歳の時に北陸道を経て故郷「越後」に帰って来ました。良寛さまはここで初めて実家の「橘屋」の衰退を知り、最初に住み着いたのは「寺泊郷本」の浜辺に立つ「塩焚小屋」でした。

40歳の時、寺泊で医師をしていた親友のひとりである「原田鵲斎(じゃくさい)」が、あちこちで仮住まいをしていた良寛さまをみかねて、自分の菩提寺である「国上寺」の「五合庵」を斡旋してくれたことによって一時「五合庵」で暮らすことになります。この当時の「五合庵」は8畳ほどの簡素な萱ぶきの小庵で、国上寺住職の「隠居所」となっていたため、前記したようにご住職の隠居にともない寺院を転々とする2年間の仮住まい生活が始まったのです。

仮住まいを終えた良寛さまのその後

仮住まいを終えた良寛さまは「五合庵」で12年間を過ごした後、国上山のふもとの「乙子神社」の草庵で10年を過ごし、69歳の時に和島村島崎(長岡市)の「木村家」に移住します。(70歳の時、ここで貞心尼(30歳)と出会います)。
そして天保2年(1831年)1月6日、良寛さまは74歳の生涯を閉じました。前年夏よりひどい下痢症状と腹痛を患っていた良寛さまでしたが、原因は「直腸がん」と言われています。