いっきに秋が深まった新潟。
新潟特産の大好物のおけさ柿が旬を迎え「柿赤くなると医者青くなる」(by長老のお父さん)の季節到来です。
そして境内のいたる場所で今年も黄色いツワブキの花が咲き始め
11月下旬まで楽しませてくれます。


花も良いのですがツワブキはボリューミーな蕾(つぼみ)も好きです。


さて、
今年10月5日(日)に行われた『弘智講』での住職の法話は「興教大師覚鑁」さまのお話でした。
「こうぎょうだいしかくばん」と読みます。
私は「覚鑁(かくばん)さん」「覚鑁上人(かくばんしょうにん)」とお呼びすることが多いです。

今日の『おてら通信』はその興教大師覚鑁上人のお話をしたいと思います。
興教大師覚鑁は、弘法大師空海と共に『両祖大師』として主に本堂にお祀りされていますので
まずは「両祖大師について」お話しをしたいと思います。
(本山より寺庭に配布された「智山寺庭ハンドブック」を参考にしました)
●「両祖大師」
はじめに両祖とは「宗祖」と「中興の祖」の事です。
真言宗智山派の多くの寺院では本堂などに「弘法大師空海」と「興教大師覚鑁(かくばん)」を『両祖大師』としてセットでお祀りしています。
両祖大師の功績や遺徳によって私たちは真言宗の教えに出会い、大日如来をはじめとする諸仏菩薩に守られながらいるからです。
空海によって日本にもたらされた真言宗は、高野山の荒廃により一時衰退をみますが、覚鑁によって再興され現在に至るまで脈々と受け継がれてきました。
そこで真言宗智山派では弘法大師空海を『宗祖』、興行大師覚鑁を『中興の祖』と称し、二人の祖師を崇め敬うのです。
ちなみに「弘法大師」「興教大師」という諡号(しごう)は後年天皇より賜りました。西生寺では客殿の主「愛染明王」さまの左右両脇に「両祖大師の像」がお祀りされています。
【西生寺の両祖大師像】
●宗祖:『弘法大師空海』
ご宝号:南無大師遍照金剛

●中興の祖:『興行大師覚鑁』
ご宝号:南無興教大師

続いて覚鑁さんの話の前に
誰もが知っている有名な「弘法大師空海」の経歴について少し。
●空海上人
平安時代前期西暦804年、空海が31歳の時に当時国際都市として繁栄していた中国の唐(長安)に留学しました。
とても優秀だった空海は現地の1000人の弟子を飛び越して長安で一番偉かった阿闍梨さまの一番弟子となり唯一「真言密教を伝授」されて西暦805年に帰国して真言宗を興しました。
日本の真言宗の宗祖としてだけではなく、天皇の信頼も厚く国内のインフラ整備事業などのトップも勤め、日本で初めての民間の学校を開設、数々の逸話を残し、その生き様にファンも多く今も高野山「奥の院」で静かに瞑想をしておられる弘法大師空海上人です。

(西生寺庫裡「弘法大師空海の御姿」)

(客殿「弘法大師空海の御姿」)
が、そんなスーパースター空海に比べて、、、
一般的な知名度がほとんどといっていいほど無い影の薄~~い
もうひとりの両祖大師「中興の祖、覚鑁上人って誰?」
ってなってるかもしれない覚鑁さんのお話しをもう少し掘り下げましょう。
そして覚鑁上人を中興のルーツとする我ら智山派のお話しも少々…
●興教大師覚鑁上人の偉業とは?
中国の唐に留学して真言密教を学び帰国の後に真言宗を興した弘法大師空海は、西暦816年に高野山に金剛峯寺というお寺を建立して真言宗はスタートしました。
西暦835年3月21日に空海上人が62歳で御入定されて以降、真言宗(高野山)は衰退が進み年月を重ねるうちに「このままでは真言宗は絶える」というくらいに落ちぶれてしまいました。
その傾いた高野山を救ったのが彗星のごとく現れた覚鑁上人だったのです。
空海上人御入定より279年後の平安時代後期の西暦1114年、覚鑁上人は20歳の時に高野山に上り27歳の時には真言宗の秘法を伝授されて高僧の阿闍梨(あじゃり)になりました。
その後、空海の教えを再興するために覚鑁上人が行った数々の改革のおかげで真言宗はよみがえり、自身も高野山金剛峰寺の座主(高野山最高峰の座)につき高野山は再び繁栄の期を迎えました。
ですから、今の真言宗(十六派十八本山)があるのは覚鑁上人のおかげといっても過言ではないのです。

(西生寺客殿に展示されている「覚鑁上人の御姿と功績の絵」)
しかし、改革に対する激しい反発を受けた覚鑁上人は高野山を去ることになります。
覚鑁上人を慕う大勢の学徒僧侶たちと共に山を下りて、同じ和歌山の根来山で「根来寺」を興し、教学の復興に尽力、西暦1143年12月12日に49歳で入滅しました。
●真言宗智山派の誕生
覚鑁上人亡き後の根来寺は、覚鑁上人の教学を受け継いだ優秀な弟子たちにより多くの優れた学徒を輩出するようになりました。
ちなみに、、、
◎根来山を中心に栄えた学派を「新義学派(真義真言宗)」
◎高野山や東寺を中心に栄えた学派を「古儀学派(古儀真言宗)」
といいます。
室町時代に入ると根来寺は「根来衆」と呼ばれる1万人もの武装した僧兵軍団を持つ一大拠点となり、これを良く思わなかった豊臣秀吉により西暦1585年に「焼き討ち」に遭い多くのお堂が焼失、
この時根来寺のリーダー格の二人の高僧が2つのグループに分かれて脱出、高野山に避難したけど冷たく追い返されたりして各地を転々としました。
結果、
1つの高僧率いるグループは秀吉の弟豊臣秀長の庇護により奈良県「長谷寺」に定住し後の『真言宗豊山派』に、
もう1つの高僧率いるグループは徳川家康の庇護により京都府「智積院」を再興することになり我々の『真言宗智山派』となったのです。
ちなみに元祖の高野山は『高野山真言宗 』(総本山金剛峯寺)といいます。
こんな歴史がありまして、、
根来の覚鑁上人系統の「新義真言宗(真言宗新義派)」である我々智山派(総本山智積院)、豊山派(総本山長谷寺)、真義真言宗(総本山根来寺)では
宗祖…『弘法大師空海』
中興の祖…『興教大師覚鑁』
として、
「空海と覚鑁」このおふたりを『両祖大師』として本堂にお祀りするのです。
また、覚鑁上人の御命日12月12日に合わせて、11月に入ると覚鑁上人を中興の祖とする多くの真言宗の寺院で覚鑁上人を偲ぶ『覚鑁講』が開催されます。
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最後に両祖大師像に限らずですが『空海上人と覚鑁上人の御姿の見分け方』を紹介します。
【超簡単な御姿の違い】
両祖大師の御姿はそれぞれ「超定番の御姿」があり、絵画でも像でもほとんど間違いなくこの御姿をされていますので一度覚えると「あ、弘法大師さまだ」「あ、覚鑁さまだ」と簡単に見分けられるようになります。
●弘法大師空海上人さま
定番の御姿:左手に数珠、右手に五鈷杵(ごこしょ)を持つ

●興教大師覚鑁上人さま
定番の御姿:衣の中で両手を組んで『内観(ないかん)の印』を結んでいる

覚鑁さんの『内観の印』とは、、、
覚鑁さんが高野山で激しい反発にあった時、トップの座主職を弟子に譲った後に高野山の密厳院に籠り、高野山が平穏になることを祈り4年間行った「※無言経」(※誰ともひと言もしゃべらない)の時に組んでいた‶己に向かって結んだ印‶の事です。
(それでも結局は高野山を追われることになる覚鑁さんでした)
以上でーす。
【お知らせ】:弥彦神社『弥彦菊まつり』11月1日~24日まで開催
(※弥彦公園『もみじ谷ライトアップ』も同時開催)

(JR特別列車・臨時列車も出るほど人気、全国有数の規模を誇る弥彦神社で開催の『第65回新潟県菊花展覧会 弥彦菊まつり』が始まりました。開催直前の10月末に弥彦神社近くの国道で撮影。展覧会出展のため、手塩にかけて育てた「観賞用菊」を搬送しているトラックだと思われます)

